違和感

違和感

爆笑問題の太田さんの本を読んでみました。

共感するところも、ん~?というところも、色々興味深かったです。

こちらは不完全な人間への愛について。

 

P5

 チャップリンの作品に『街の灯』という長編映画がある。

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 主要登場人物は盲目の少女と浮浪者の紳士。現実としては「浮浪者」なんだけど、彼の姿が見えない少女からすれば、なにかと親切にしてくれる彼を「紳士」だとしか思えないという設定だった。

 チャップリン演じる浮浪者の紳士は、少女の目を治す手術代のために、図らずも盗みを働いてしまう。結果的に無実の罪で牢屋に入れられてしまうんだけど、せめてもの救いは、そうなる前に少女へお金を渡せていたこと。

 時は流れ、釈放された紳士が街を歩いていると、盲目の少女と再会する。この時、彼女の目は手術が成功して見えるようになっているんだけど、よろよろと近づいてきた紳士に少女はお金を恵もうとする。目が見えるようになった彼女にとっては、ただの浮浪者だからだ。男は「目が見えるようになったんだなぁ」と気づく。

 俺は、最初はロマンチックだと感じたこの場面も、実は残酷だなぁとある時から思うようになった。残酷さのポイントは、少女が小銭を握らせようと摑んだ手のぬくもりで、この浮浪者があの紳士だったのだと気づいた時の表情。その顔には、再会できてよかったという感情にプラスして、かすかに落胆の色も滲んでいたからだ。

 おそらく、目が見えなかった頃の少女は、なにかと助けてくれる紳士を若くてハンサムなお金持ちだと妄想していたのだろう。なのに、目の前にはうらぶれた浮浪者。その落差が彼女の落胆した表情に込められていたし、いかにも正義面したいい話でこの物語を終えないところに、チャップリンのすごみがある。

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 ・・・おそらく『街の灯』の浮浪者は物語の幕が閉じたあと、あの場所から静かにそっと立ち去っていると俺は想像するんだけど、ふたりが結ばれる未来などイメージできないし、物語的にはひどいエンディングなのかもしれない。

 でも、チャップリンは、「ひどい女の子かもしれないけど、それが人間ってものでしょ?」と伝えたかったのだと思う。

 立川談志は、討ち入りから逃げてしまうダメな登場人物たちを舞台に生き返らせ続けてきた。師匠が好んで使っていた「業の肯定」という言葉には、「こいつらさ、揃いも揃ってダメなやつらだけどさ、まぁ許してよ」のメッセージが隠されているように感じる。

 言ってみれば、不完全な人間への愛情。

 ふたりの偉人は、それを描くことの素晴らしさと難しさと怖さを教えてくれた。