世界は贈与でできている

世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング)

 何か別の本の中で紹介されていて、この本「世界は贈与でできている」を知りました。

 このような角度から捉えてみたことがなかったです。

 

P56

 誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。

 僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。

 頼りにされるというのはたしかにときに面倒くさい事態となります。僕らはそれを「しがらみ」や「依存」と呼んで、できる限り排除しようとしてきました。

 その代わり、ありとあらゆるものを自前で買わなければならなくなりました。

 いざというときに備えて、保険に入ったり、貯蓄をしたり。

 なぜそれが備えになるかというと、生きるために何かを買い続けなければならないからです。誰にも迷惑をかけられることがないという自由を得るために、死ぬその瞬間まで一瞬たりとも休むことなく商品を買い続ける運命となりました。

 資本主義というシステムに「資源の分配を市場に委ねる」という側面があるのだとすれば、資本主義は、ありとあらゆるものを「商品」へと変えようとする志向性を持ちます。

 市場の拡大、資本の増殖。

 そのためには、あらゆるものが「商品」でなければならない。

 したがって、資本主義のシステムの内部では「金で買えないもの」はあってはならないことになります。資本主義を徹底し、完成させようとするのならば、僕らは金で買えないものを排除し続けなければなりません。

「金で買えないものはない」のではありません。そうではなく、「金で買えないものはあってはならない」という理念が正当なものとして承認される経済システムを資本主義というのです。

 だからそのシステムの中では、あらゆるものが「商品」となり、あらゆる行為が「サービス」となり得る。その可能性を信じ切る態度を資本主義と呼ぶのです。

 それは言い換えれば、もし仮に金で買えないものがあったとするならば、それは、「買えない」と思い込んでいる僕らのほうが間違っていると主張する立場のことです。だとするならば、資本主義とは経済システムのことではなく、一つの人間観です。

 そして、その思想はたしかに「自由」と相性がいい。

 あらゆるもの、あらゆる行為が商品となるならば、そこに競争を発生させることができ、購入という「選択」が可能になり、選択可能性という「自由」を手にすることができます。

 ただし、その自由には条件があります。

 ―交換し続けることができるのであれば、という条件が。

 

 ボストンのある消防署。消防本部長は、月曜日と金曜日に、消防士たちの疑わしい病気欠勤が集中していることに気づいた。そこで彼は、有給病欠の年間上限を計15日までと設定し、上限を超えた消防士には減給を命じた。

 その結果どうなったか。予想に反してクリスマスと元日の病欠連絡が、前年の10倍に増加してしまった。それに対し、消防本部長は今度はボーナスの一部の支給を取りやめることを決めた。すると消防士たちはそれを不快に思い、前年と比べて2倍以上の病欠日を申請することで応じた。

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 ・・・サミュエル・ボウルズの『モラル・エコノミー』で取り上げられている事例です。

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 この・・・事例は交換の論理と関係しています。

 なぜそんなことが起こったかというと、申し訳なさやうしろめたさを、金銭と交換させてしまったからです。金銭を払うことで負い目をチャラにできてしまったのです。

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 僕らは、人はインセンティブ(報酬)によって行動し、サンクション(制裁)によって行動を抑制すると考えがちです。しかし、これらの事例が示すのは、そうとは限らない、というよりも、多くの場合でそうではないということです。

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 ・・・倫理、義務感、誇り、プロ意識、勇気といった定量的に測ることのできない内的動機に基づいて、消防や教育という公共的な仕事はかろうじて成立しています。

 これらの内的動機は、一言でまとめれば「責任」です。それも外から押しつけられた責任ではなく、自らが気づいた内なる責任の自覚です。もう少し強い言葉を使えば、「使命」です。

 また、「天職」とは、自分にとって効率的に稼ぐことのできる職業、職能ではありません。天職は英語では「calling」です。

 誰かから呼ばれること。誰かの声を聴くこと。これが天職の原義です。

 もちろん、西洋の考えでは、その声の主は神です。

 ですが、その声には神ならぬ普通の誰かからの「助けて」という声も含まれているのではないでしょうか。

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 交換の論理の手札であるインセンティブとサンクションは、その他者からの声、要請を無効にしてしまいます。声を聴くことができなくなってしまったら、責任の自覚、誰かから忖度されているという感覚が消失してしまいます。

 だから僕らは、金銭を目的にして仕事をしてしまったら、仕事の「やりがい」からどんどん遠ざかってしまうのです。

 仕事のやりがいは、その仕事の贈与性によって規定されるのです。

 それはまた、僕らが採用している教育、医療、消防、治安維持、公共衛生、政治などの社会システムが、交換の論理では基礎づけられないということを意味しています。