この辺りのお話も興味深かったです。
P52
宇野 ・・・『Black Waves in Infinity』に完全に没入できるようになると、世界の外側はもう想定できなくなって、境界線という発想自体が虚しいものになるよね。猪子さんは、そんな境界線のない世界のことをとてもポジティブなものだと考えているのが面白いと思う。だって、近代の考え方では、基本的には閉じた世界から脱出することが人間としての成長であり、カッコいいことだというのが主流で、「この世界に脱出口や外側がない」というのはネガティブなイメージで語られることのほうが多いんだよ。
でも猪子さんは、すでにある世界の中に完全に入ってしまうこととか、世界の内側と外側を分ける境界線がなくなることとかを、とてもハッピーなイメージでとらえているよね。
猪子 「自己という境界が曖昧になって、自分が世界の一部であるかのような感覚になる」ということが、ポジティブで気持ち良いことであるようなアートをつくりたいのかもしれない。
宇野 それをハッピーに感じることと、物の中に人間が入っていく感覚をアートで表現する意味は、これまで明確につながっていなかったと思う。けれども今話していく中で、それは❝境界線のなさ❞のようなものかもしれないと思った。
つまり「そもそもこの世界には境界線というものはないし、世界の外側と内側という概念もない。だからこそ、当然自分も世界の一部なんだ」という感覚を、猪子さんは物の中に入るアートによって実感できるようにしたいんじゃないか―そんな気がするね。
P63
宇野 20世紀までの人間というのは、要するに知識をつけてたっぷり内省して「他者に対して寛容になれ」とか言ってきたわけ。でも、猪子さんの提示する他者のイメージは根本的にそういう発想とは異なっている。
だって、テクノロジーの力を使うことで、我慢して他者を受け入れるのではなくて、他者の存在を単純に気持ちの良いものにしているわけだからね。まさにウォーホルが消費社会に対して行った価値転倒のようなものを、チームラボのアートは情報社会に対して行えるポテンシャルがあるはずなんだよ。
猪子 それで言うと、情報社会には、人間性みたいなものを不自由にするイメージがあるけど、20世紀のほうが人間を不自由にしていたと思ってる。デジタルを使えば鑑賞者でありながらその世界で走り回れるし、見ているものと自分との境界もなくなっていく。
・・・
宇野 これは思想史的な流れもちゃんとある。まず20世紀に、マルクス主義的に労働条件をどんなに良くしても人間はまったく解放されず、むしろ全体主義に近付いて窮屈になることが判明した。そこで1960年代に登場したのがカウンターカルチャーで、彼らは「革命で世界が変わらないなら、自分の脳を変えよう」と言い出して、自然崇拝とかドラッグとかをやり始めたわけだよね。それが、ニューエイジの始まりでしょ。
猪子 そうなんだろうね。だって、スティーブ・ジョブズの映画で、当時の西海岸でジョブズがトリップしながら「そうだ、パソコンをつくろう」と決意するシーンがあったんだよ(笑)。
宇野 つまり、ジョブズは当時トリップがどんどん違法化されていく中で、いわばトリップの代わりとしてパソコンをつくろうとしたということでしょ。それは「自分の脳を変える」から「世界を変える」への回帰でもあるし、西海岸におけるコンピューター
文化の台頭が20世紀後半における最大の思想的なターニングポイントだったという証でもある。
だから、カリフォルニアン・イデオロギーというのは、1960年代に一度は挫折した「世界を変える」という思想の系譜の上にあるものなんだよね。・・・
猪子 ・・・僕は昔からなぜかあの時代のカウンターカルチャーも好きだし、アップルも好きだったし、もちろん『スーパーマリオ』のゲームも好きだった。それで、だんだん大人になっていろんなことがわかってきたときに、ある日「あ!これって全部つながってるんだ!みんな、同じ戦いをしていたんだ!」ということに気付いたんだよね。
宇野 チームラボの作品も、そういったイメージの連鎖の一部になるべきだよ。
猪子 結局、僕はアートを通して「自分は世界の一部でしかない」という体験を無意識的にさせたいんじゃないかと思うんだ。
・・・
だから、僕なりに情報社会をどう肯定するかという話に戻すと―なんていうか、もっと自由でかつピースになってほしいな。今までは他人の存在がネガティブな世界だったから、自由になることは必ずしもピースなことではなかったかもしれない。でも、他人の存在がポジティブなものになる世界が実現すれば、自由になることはもっとピースになる。そんな気がしているんだよね。