針と糸

針と糸 (毎日文庫)

 小川糸さんのエッセイは、読んでいると気持ちが落ち着きます。

 

P13

 ある週末、近所のカフェに行ったら、いつもはつながるはずのWi-Fiがつながらなかった。お店の人にたずねたところ、笑いながら黒板を指差す。そこには、No Wi-Fi on weekend!の文字が。そう、週末はあえてインターネットがつながらないようにしていたのだ。

 せっかくの週末なのだから、パソコンやスマートフォンの画面ばかり見ていないで、友だちと話したり、空を見たり、おいしいものを食べたりしましょうよ、というお店からのメッセージらしい。そういうユーモアの通じるベルリンに、私は一票を投じたくなる。

 そのことに感動していたら、ドイツでは国をあげて、そういう方向に動きつつあるというので驚いた。つまり、平日の午後六時以降や週末は、ビジネスメールを禁止するというのだ。いつか、そんなことも必要になる時代がくるのではないかと思っていたけれど、それを法律できちんとルールにしようとするなんて、さすがである。

 ドイツ人は、平日と週末をきちんと区別して生活するのが、とても上手だ。平日はまじめに仕事をし、その分週末は仕事から離れる。見ていると、だいたい金曜日の午後くらいから、人々が浮き足立つのがわかる。交通機関も、金曜日と土曜日の夜だけは終夜運転で、帰りの足を心配することなく、夜更かしを楽しむことができる。そして、日曜日はゆっくり休んで、静かに過ごす。

 ・・・

 ・・・無理をすると、その分必ずしわ寄せがくるから、私はなるべく無理をしないというのを、信条にして生きている。

 

P199

 上京したのは十八の時だった。東京の大学に進学することは、当たり前のようなもので、そのまま東京で就職するのもまた、当たり前のように感じていた。でも、本当はどこに住んでもいい。住む場所は、自分で決めていいのだ。

 そのことを教えてくれたのは、モンゴルだった。初めてモンゴルに行ったのは、二〇〇九年だったろうか。・・・遊牧民のハヤナーさん宅にホームステイした。宅と書いたが、ゲル、要するにテントである。・・・

 半径数メートルほどの空間に、人間が八人、更に羊までもが加わる大所帯で、プライバシーなど全くない。トイレはもちろん外だし、電気は、昼間貯めた太陽光発電がほんの少し使えるだけ。何もかもが、東京の暮らしとはかけ離れていた。

 ハヤナーさんのゲルを去る日、私はごろんと地面の上に寝そべって、手足を大の字に広げてみた。見上げた空では悠々と雲が流れ、すぐそばに生き物の気配を感じる。それが、とても気持ちよかった。その時に、私はふと大切なことに気づいたのだ。

 私にその意思さえあれば、ここで遊牧民として生きることだって、決して不可能ではないということ。自分はそれくらい自由で、どこにでも住めるのだ、とはっきり自覚したのである。そうしたら、ものすごく楽になった。自分をがんじがらめに縛っていたのは、他でもない、自分自身だったのだ。