宝となる経験

7本指のピアニスト

 苦しいこと、難しいことなどに対して、どう行動するか、どういう見方をするかは、ほんとうに自分次第なのだなぁと思いながら読みました。

 

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 ジストニアの治療と職の掛け持ちで忙しい日々が続いていましたが、大学にも相変わらず通っていました。カーネギーホールでの僕の演奏を聴いたことのある学長が奨学金を出してくれたので、貧乏生活真っただ中でも学校に通うことができました。これも、本当にありがたかったです。

 その当時、トピックスを自分で選んでプレゼンテーションをする授業があり、僕は〝貧乏でも豊かに暮らす方法〟と題して発表しました。

 内容は、「粗悪な食材で調理した料理を食べるときは、気分的に悲しいので、オペラを大音量で流しながら金持ち気分で楽しむ」「炭酸水は99セントショップ(日本でいう100円均一ショップ)で買ったシャンパングラスで飲む」・・・「クラシックのコンサートやミュージカルに行くお金がなくても、開演ギリギリに劇場に行けば、ダフ屋があり得ない安い価格でチケットを売りさばく瞬間があるので、それをゲットしてエンターテインメントを楽しむ。そのときは、H&M(リーズナブルな洋服屋のチェーン店)などで10ドル(約1000円)くらいのシャツにジャケットさえ合わせればちょっと豪華に見えるので、それを着て気分を上げていく」などです。

 貧乏生活で実行していた、僕なりの「工夫」を列挙しました。

 これには、アメリカ人たちが手を叩いて笑ってくれたので、次にまたプレゼンをすることになり、・・・

 ・・・教授が僕に「君のスピーチは興味深いから、よかったら国際スピーチコンテストを受けてみないか?」と言われました。国際スピーチコンテストとは、英語を母国語としない人たちが出場するスピーチコンテストです。

 コンテストでは、〝マリア・カラスが現代のオペラ界に与えた影響〟と題して、スピーチをしました。・・・ぜひ伝説と魅力を正確に伝えたいと思っていたので、大真面目な内容になりました。トピック自体は一般受けしませんでしたが、マリア・カラスの残した話し言葉を演技付きでスピーチしたら会場が湧いて、1位になりました。このときの賞品は、大学の学生食堂のメニューが当分無料になるチケットでした。

 僕はもともと人前で話すことは、むしろ苦手です。・・・苦手意識が強かった分、授業のプレゼンの段階からたくさん練習をしていたからかもしれません。今思えば、人生のあらゆる場面で「苦手」や「不可能」というキーワードに遭遇すると、ものすごい集中力を発揮してきました。コンプレックスというものは、実はとてもありがたいものなんだということが、今となっては実感できます。

 そんなこんなで、必死に食いつなぐのと大学での勉強をこなすので忙しく、ジストニアの影響もあり、演奏活動をあきらめかけていた頃、僕を奮い立たせる事件が起きました。

 あるお屋敷でのパーティーに、掃除夫として雇われたときのことです。男性ピアニストがそのパーティに呼ばれ、素晴らしい演奏をしていました。そこまでは「きれいに演奏するな……。うらやましいな……」と思いながらも「しかたない」と思って見ていたのですが、家主からピアノの下に潜り込んだペットが糞と尿をしたから取ってくれと言われ、周りはシャンパンやピアノ演奏を楽しむなか、僕はピアノの下に潜り込んで、糞と尿の掃除を始めました。僕は動物が好きなので普段だったらまったく気にしなかったでしょうが、そのパーティーにいた数名の人たちは掃除をしている僕を露骨に避け、汚いものを見るような目で見たのです。そのとき僕は「絶対にもう一度舞台に立つ!」と決めました。

 この経験は、僕の宝となりました。それは、もう一度舞台に立とうと決心しただけではなく、自分がやりたくない仕事をこなしている人に対して感謝の気持ちを持つことをわすれてはいけないと肝に銘じるようになったからです。

 そして、もう派手に弾けなくてもいいから、チヤホヤされなくていいから、簡単な曲でいいから、「せめて1曲!1曲でいいから、もう一度自分のために弾けるようになりたい!!」。そう心の底から思いました。すると、昔辛かった毎日の長時間の練習を懐かしく感じ、長時間練習できるくらい健康であることをありがたく思いました。