この先生とのやりとり、いい話だな~と思いました。
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・・・「実はサプライズがあるんだ。君が日本へ帰る前に一度ニューヨークで演奏会をしてみないか?場所はリンカーンセンターのアリスタリーホールだよ」と言われました。
「リンカーンセンターって、あのリンカーンセンター⁉すごい!」
大喜びしましたが、演奏会そのものの現実味がなさすぎて、僕はあまり実感がわきませんでした。・・・
・・・
初めのうちは「やったー!」くらいでしたが、コンサートの日程が近づくにつれドキドキしだしました。毎日のようにレッスンしていたとはいえ、しょせん2カ月程度の話。個人差もあるでしょうが、一般的な話をすると、ピアニストが自分一人のリサイタルをする場合、その準備期間に約1年はかけます。
・・・
・・・演奏会が近くなると、うまく弾ける自信がだんだんとなくなってきて、ブラッドショー先生に「あのう、お気持ちは嬉しいんですけど、僕やっぱり自信がないです」と、弱音を吐き始めました。
すると、ブラッドショー先生がこんな話をしてくれました。
「昔ね、私がジュリアードを卒業してすぐの若かった頃、とあるコンサートプロデューサーに呼ばれて会ったんだよ。そこで『ラフマニノフの<コンチェルト3番>は弾けるか?』と聞かれたんだ。私は『もちろん弾けます!』と答えたんだ。すると、そのプロデューサーは『素晴らしい。実は2週間後に、コンチェルトコンサートに出るはずのピアニストの具合が悪くなって、代理のピアニストを探していたんだ。ぜひ頼む』と言われて契約を取ったんだ」
僕は、
「僕が大好きなコンチェルトです!」
と言って、興奮して聞いていました。すると、
「ゴヘイ、その時点で、私はその曲を演奏したことがなかったんだよ」
「はあ⁉」
「私はまだ若くて、せっかくきたコンサートの仕事を断りたくなかったんだ。だからできるって言ってしまったんだよ」
「それで、どうしたんですか?」
「弾いたよ。2週間後に。だけど、2週間寝ずに練習したし、当日は死ぬかと思うほど緊張したよ」
ラフマニノフの『ピアノコンチェルト3番』といえば、現在地球上に存在するピアノ曲のなかでも、最も難しい曲の一つで、1曲で40分くらいあり、音符の数でいうと約3万個あります。
しかもフルオーケストラをバックに、ピアノが前面に出て奏でる壮大な曲なのです。
「それで、どうなったんですか⁉」
「本番では思ったようにうまく弾けなくて、相当落ち込んだんだ。そして演奏後、すぐに楽屋に引きこもっていたら、プロデューサーが走ってきて、『聴衆がまだ拍手をしている!早く舞台に戻れ!』と言うんだ。なにがなんだかわからなかったよ。だけど、大成功だったんだ」
そして、こう言いました。
「ゴヘイ、君に二つのことを知ってもらいたい。完全な準備ができるのを待っていたら、いつになるかわからない。必ずきたチャンスは逃さずに摑むこと。まずはやってみるんだ。それから、自分ではだめな演奏と思っていても、人から見れば素晴らしいと思われることもある。自己評価をあまり低くせず、自信を持つことも必要だよ」
僕は感動しましたが、こう聞きました。
「でも、もしそれで本番でメチャクチャになっちゃったらどうするんですか?」
するとブラッドショー先生が、
「……舞台上で気を失ったふりをして、倒れ込めばいいんじゃないか?実際、世界的に有名なピアニストが、本番中に音がわからなくなって(音符を忘れてしまって)、途中で収拾がつかなくなり、舞台上で気絶したふりをして難を逃れたそうだ」
と、教えてくれました。