死の迎え方

死という最後の未来

 死をどう捉えているか、身近な人と話し合いができていると安心です。

 

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曽野 私は、夫が入院する時に、書類にあった、むだな延命を拒否するという条項にマルをつけましてね。これは本人の意思でもあったんです。

 私がまだ中学生の頃ですけれど、尊敬する老医師から教えられたことがありました。人の最期にやってはいけないことは、点滴、または胃ろうで延命すること、気管を切開すること、酸素吸入の3点だったんです。私たち夫婦は、老後には一切の延命治療はやめようと話をしていました。

 

石原 それは、いつ頃話し合ったのですか。

 

曽野 50代くらいからですよ。・・・私たち夫婦は昔から、大事、小事全部よく話してきて、老後どうするのかといったことも、自然な形で話して受け止めていました。特別なことではなくて、家族は日常的に、当たり前のように話していいのに、それをしないじゃないですか。やはり、「死学」というものが必要ではないかと思いますね。

 ・・・

 ・・・私はあの棺というものがあまりよくない、死を塞いでいると思うことがあります。人間はそれこそ砂漠にそのまま寝かせるようなことができれば、いちばんいいんだろうなと思います。それでこそ人の死は仰々しいものじゃなく、自然にやってきて、逝くんだとわかる。

 

石原 なるほど、死を塞ぐね。

 

曽野 でも現実には、それをするわけにはいきませんからね。日本国家の通俗、習慣に倣わなければならないから。私も自分の死に備えて、その時に着せてもらう衣類は用意してあるんですよ。

 ・・・

 12年くらい前にシンガポールで買った、真っ白な服です。地元の女性たちが着る、裾の長いものですね。・・・そのうち着る時が来るでしょう。

 ・・・

 ・・・神父は人間の死の日を「ディエス・ナターリス」と言うんです。ラテン語で、生まれた日、という意味です。「人間の死は決して、命の消滅ではなくて、永遠に向かっての新しい誕生日」という意味ですね。これはカトリック教徒の全員の中にあるものなんです。