感謝するだけの人生でありたい

与論島の山さん 薬草に捧げた人生と幸せな終末へのメッセージ

  すばらしい・・・そんな風でありたいなぁと憧れました。

 

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 ・・・こんなことを言っても本土の多くの皆さんにはそうかんたんには信じてもらえないかもしれないけれど、与論の人は「自分の死期がわかる」と考えている人が多いの。

 実際に、そのときにはアンマーが来ます。「アンマー」というのはお母さんのことなんだけれど、不思議なもので「アンマーが来た」と言って、アンマーが見えると自分の死を悟るんです。

 そうして死期を悟ったら自宅に戻るなど、準備を整えて死を待つの。

「与論の薬草を通じて人の役に立てたんだと思いながら死にたい」

 いちばん最初にお話ししたとおり、わたしの場合は、自分はこれをやり遂げたと思いながら、家族に見守ってもらって、心からの感謝の気持ちを伝えて死にたいですね。そういう最期を迎えるために生きていると言っていいと思います。そのために、発作なんかでうっかり自宅以外の場所で死んでしまわないように、自分の体のことを常日頃からきちんと把握して、管理には気をつけています。

 皆さんもご自身の最期について考えることはあるでしょうか。

 最初は苦痛かもしれないし、そもそも考えたくもないことでしょうが、それを考えることはすなわち「これからどう生きるか」ということにつながってきますから、無駄なことにはならないんじゃないかと思いますね。

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 わたしは「感謝するだけの人生でありたい」と思って、あらゆることに感謝する生き方をしてきました。

 批判的な意見に感謝。与論の透きとおる海に感謝。今日もまぶしい太陽に感謝。おいしいごはんに感謝。挨拶してくれる子どもたちに感謝。頼ってくれる人たちに感謝。話を聞いてくれるお友達に感謝。

 わたしなりに大きな目標とか、信念はあるんだけれど、そういうのを叶える満足とは別に、こんな小さな感謝を積み重ねることが毎日の満足感や生きている幸せのような気持ちにつながって、心のゆとりのためには大事なんじゃないかって思いますね。そして、そういうゆとりこそ、大きな満足を得るために努力を継続する源にもなる。

 このような身のまわりの物事に感謝し満足する、「足るを知る」人の生活は、与論でなくても、どこにいてもできることですね。わたしも最初からずっとこんなふうに生きてきたわけではないんだけれど、そういう意識をもつと周りに生かされている気持ちになるので、自分ばかりが先に立とうとする煩わしい人間関係はなくなるし、無私の心で、穏やかに自分の人生を送れるようになると思います。

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 ・・・「トートゥガナシ」という言葉に込められている「敬って感謝する心」は、わたしだけでなくって与論では大切に受け継がれてきた美徳です。そして、これこそが唯一無二の、皆さんにお伝えしたい島が誇るべきことだと思っています。島へいらっしゃれば、景色だけではなくって、きっとそんな島民のもてなしにも癒されるはずです。

 その島民が日々敬い、感謝するのは、自分がいま存在すること、その源流である先祖ですね。先祖に対する真心は〝与論のたましい〟です。いろいろな風習を通じて、それが与論の死生観に大きく影響しています。

 先祖がそうしてきたように、大切な家族を神として守るために自宅で最期を迎える。自分も家族に見守られて逝きたいと願う。自分の死によって感謝とは何か、死とは何かを子や孫に問いかける。

 そんな死がいつか訪れることを心に刻むことで、自分の生き方が見えてくる。生き方に正解なんてないんだけれども、ある人は「自分ではなく、誰かのため」という気持ちで、自分にできることをやる。そんな信念をもって生きる人は、これまでも、きっとこれからも島にはいると思います。

 そして、いつか納得して最期を迎え、人生を完成させる。

「人生を完成させた人の死は美しい」

 これまでわたしも見てきた、そんな理想的な終末を目指すからこそ、それに値する生き方もあると思うんですね。