杏さんのエッセイ

杏の気分ほろほろ (朝日文庫)

 ふと見かけて読んでみたら、とっても面白かったです。

 他のものも読んでみたいなと思いました。

 

P145

 フジテレビ開局五十五周年スペシャルドラマ「オリエント急行殺人事件」に出演することになった。アガサ・クリスティーの原作を、脚本家・三谷幸喜さんが、舞台設定を昭和初期の日本に置き換えて物語を紡ぐ。

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 主人公の名探偵エルキュール・ポアロ野村萬斎さんが演じる。役名は「勝呂武尊」。名前の由来は、三谷さんがエッセイで書かれていたが「ポアロに語感が似ている『勝呂』。エルキュールとはヘラクレスのことで、日本のヘラクレスを考え、日本武尊を思いついた」とのこと。

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 ・・・勝呂探偵の活躍の比重は、筆舌に尽くしがたいものがあった。それが台詞の量である。事件に居合わせた乗客十二人、被害者、そして鉄道関係者数人という大人数がそろい、各人のバックグラウンドを一人一人推理してひもといていく。

 説明台詞(と形容されることが多い)は覚えづらい。自分が演じるキャラクターの感情や、経験した経緯などは関係なく言葉が並んでいるし、なおかつ正確に述べないと台詞自体が成立しない。・・・そして名探偵は「天才」であり、よどみなく、立て板を流れる水のように話し続けなければならない。

 ・・・ひとごとながら「一体この量の台詞は、どのようにして覚えるのだろう」と勝手に戦々恐々としていた。

 台本が何ページもまるまる一人の台詞で埋まる、怖ろしく長いシーンの撮影は二日間に分けて行われた。……いや、二日間しかなかった。

 あまりにも豪華キャストすぎて、全員がそろうスケジュールが二日間しか取れなかったのである。それも、全員そろうシーンはこの他にもあったから、実質一日だ。・・・

 狭い列車の中、カメラを一度に数台設置することは難しく、また人数も多いため、セッティングを変えて、演技は何度も何度も繰り返された。

 野村萬斎さんは、一度も間違えなかった。

 どころか、待ち時間に台本を開いてさらうことも無く、台詞をそらんじることも無かった。私だったら、と何度も考えた。・・・たとえ覚えられたとしても心の余裕なんて持てないだろう。「どうやっているんですか?」と聞いてみたが「いやぁ、二週間くらいかかりましたねぇ」というくらいの答えだった。

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 ・・・日が経って、打ち上げの機会があった。・・・乾杯の段になって、萬斎さんがグラスを持って、優雅に壇上に上がった。

 ・・・「スタッフの皆様には、色々お付き合いいただき、特にご迷惑をおかけしました」と話が始まり、例のシーンの真相が明らかになった。

 あのシーンを撮影するまでに、毎日撮影が終わったあとスタジオに残り、実際の列車のセットを使って、動きをつけながら稽古をしたのだという。スタッフの方々は同時にカット割りやセッティングのことを考えながらだったと思うが、頭にそれぞれのキャストの写真を張り付けて、それぞれの位置に居たのだという。

 毎日の撮影自体も、決して楽なものではなかった。その撮影が終わってから、さらに稽古までされていたとは。そして、このような方法があるとは。萬斎さんがあいさつの中で「わがままに付き合ってもらった」とか「迷惑」という言葉をそのまま使っていたかは定かではないが、そのようなニュアンスで謙遜されてお話ししていた。が、作品作りにとって、こうして時間外で結束すること、協力しあうこと。それは決してわがままではない。というより、最高級のわがままなのだ。

 よりよい作品を作るために、頼り、頼られ、協力しあう。

 何より自分が誰よりも努力する。

 人と触れ合うことを恐れずに、ぶつかっていきたい。そう学ばせていただいた。