名前とは?

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

プナンにとって名前とはいかなるものか?という話、これも興味深かったです。

 

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 プナンにとっての名前は、私たちが考える名前とはやや趣が異なる。プナンは、人間は、<身体><魂><名前>の三つの要素を備えた存在だという。人間を構成する三つの重要な要素のひとつとして、<名前>がある。ニーダムは、その三つの要素とそれらの相互関係を、以下のように描きだしている。

 

 <身体>は、状態と形態の点で常に変化し、物質的条件の影響を受ける。<魂>は実体がないために自由に動き回る。この二者は、しっかりと結びついていなければならないけれども、その結合はつねに不確かである。その結びつきを確かにするものこそが、<名前>なのである。名前は、プナンにとってたんなる称号でも社会的な便宜でもない。それは、身体と魂に影響を及ぼす重要な人格の構成要素のひとつなのである。<身体><魂><名前>の三つの構成要素がそろってはじめて、その存在者は人間となる。逆に言えば、人間とは、その三つの構成要素を完備した存在者である。[Needham:1971:205-6]

 

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 その名前が、先述したように、人の生活史の中でころころと変わる。身体を魂にしっかりとつなぎ止めておくために、別の名前がその都度与えられなければならないかのように。

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 プナンは、重篤な病気に罹った場合に個人名を変えることを含めて、変化する名前のうちに暮らしているのだとも言える。身体と魂をしっかりとつなぎ止めておくのが名前だというよりも、名前を次々と変えていくという「刺激」のようなものを与えてやらないと、身体と魂はしっかりと定位しないかのように。・・・

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 ・・・プナンは、デス・ネームを含めて、人生のいくつかの場面でころころと名前を変える。主体的に、自発的に名前を変えるのではない。死、時には生に関わる出来事が、外側から名前を変えるように強いてくる。プナンの感覚からすれば、近親者が死ぬと、名前がどこか別の場所からやって来て、<私>の名前だけでなく、<私>の周りの人たちの名前をごっそりとすり替えてしまうのである。個人名はあるのだけれども、日常では口にされないので、それらはどこかに漂っているような、自分から離れてしまったような、不思議な感覚を催す。それはまた、<私>という存在の変容でもある。名前はそのうちに個人名に変わることもあれば、次に起きた死によって、別のデス・ネームに変わることもある。

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 ・・・プナン社会では、・・・死者の名前は口に出してはならないとされる。・・・どうしても死者に言及しなければならないような場合には、・・・死体を埋葬するためにつくられた棺の素材である樹木の名前を用いて、「ドゥリアンの木の男(lake nyaun)」・・・などという言い方で仄めかされる。・・・

 ・・・そのようにすることで、死者は生ある存在以後の、つかみどころのない、はっきりとしない「何か」となる。名前に関して言えば、死者は無名化される。