ここもとても興味深かったところです。
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いろいろな時代、いろいろな地方、いろいろな民族で表現は異なるが人間存在の根源には「何か」があるというのは共通している。「アートマン」「霊我」「魂」「真我」「プルシャ」「自我」など、いずれにしても《根源》の存在は否定できない。そうなると肉体が存在していて、《根源》が存在しているというところまでは理解できる。
そこで肉体と《根源》との間には精妙な身体は存在するのだろうか、もし存在するとすればその精妙な身体は一体何種類あるのだろうか、という疑問が生じる。
・・・
・・・私の場合には体感をつぶさに観察してみても複数という手応えはない。それでは肉体と《根源》だけなのかというと、そうではなくてその中間の精妙な身体の存在は確かに認められる。
その存在は「意識体」と表現するのが一番適切だと私は考えている。
私の観察によれば、その意識体は質的な感覚においても、個性面においても一定ではなく、状況に応じて変化する。その変化をつぶさに観察すると、まったく別の身体が存在しているような違いがある。しかし、しっかりと観察をしていると、変化していくプロセスが明らかになるので、別の身体ではないことが判る。
そのあたりの観察があいまいだと、別々の身体が存在しているような錯覚をしてしまっても仕方ないだろう。私の体験から推測すると、前記の幽体、霊体、アストラル体、メンタル体、プラーナマーヤ・コーシャ、マノマーヤ・コーシャ、ヴィジュニャーナマーヤ・コーシャなどは、意識体が変化したいくつかのパターンをとらえて表現しているように思われる。
・・・瞑想の「或る」レベルになると肉体感覚が希薄になり、自分の存在をもっと精妙な身体で感じとれるようになる。
思考の流れが支配しているときの意識体をしっかりと観察すると、肉体とほぼ同じ形を有していて、実際の肉体よりは粘性があり、ゴムマリのような触感がある。大きさは肉体とほぼ同じで形も同じなので、肉体とダブって存在しているように見える。肉体のほんの少し内側と外側にかけて輪郭があり、その幅が粘性と弾力性として感じられる。この意識体がそのまま肉体から離れるのが、一般的に「幽体離脱」とされているもののようだ。
そこからさらに瞑想が深まり、感性がキラキラと輝き出したときの意識体の形状はかなりあいまいになり、現実の肉体より膨張するケースが多い。・・・
この感性が輝き出したレベルでは、意識体は肉体の形状にとらわれなくなるので、触覚だけが十メートル先に行ったり、視覚だけが肉体から離れたりする。・・・
思考の流れがほとんど感じられなくなり、感性の輝きも穏やかな丸みを帯びたものになると意識体は透明感を帯びてくる。そして肉体感覚がまったく消え去り、わずかに根源の周囲にふわふわと漂っているときの意識体は、宇宙という大海にゆったりと身をゆだねて、そのまま溶け込んでしまっても不自然ではない状態になる。
意識体がいろいろに変化していくプロセスをつぶさに観察できるようになると、その変化の具合から自分の瞑想の深さが把握できる。