出口のない世界

対局する言葉

昨日の記事に書いた、元の話は、こういう内容でした。

 

P19

羽生 話は飛んじゃうんですけど、私、F1とか好きなんで……。・・・

 アイルトン・セナ、もう亡くなってしまいましたけど、やっぱり時速三百キロの世界で「神の存在を見た」って言いだしたときがあるんですよ。それでそれ以来、愛読書が聖書になったんですよね。だから、なにか人間の極限をどんどんどんどん追いつめていくと、そういうものが見られるようになるのかもしれませんけれども、その域に達するにはものすごい高い能力と努力みたいなものが必要で、なかなか見られないのかなというような感じはなんとなくもっていますけど。

柳瀬 時速三百キロの世界というのは、その世界は将棋の世界にもあるわけですね、現実に。

羽生 そうですね。

柳瀬 絶えずある。

羽生 絶えずは、ないですね。・・・

 自分の将棋を例にとると、プロになってもう五百局以上指してますけど、本当に自分の力を使いきって将棋を指したと感じるときって、ないんですよ、ほとんどいままで。もちろん、かなりギリギリまで自分を追いつめて戦っているつもりなんですけれども、それでもやっぱりどこか無意識のなかに躊躇する、例えば車でいうとアクセルを踏み込むのを躊躇している部分があるんじゃないかな、と思ってるんですよね。だから、まだそういう意味では、これはもう本当に文句なく後世まで残せると自信をもって言えるような棋譜というのは、自分では指したことはないんです。

柳瀬 そうですか。恐ろしい人だなあ。

羽生 あと、能力みたいなものがどんどんどんどん高く高く上がっていくと、心がついていかないって、ありますよね。柳瀬先生が訳した『フィネガンズ・ウェイク』を読んだ訳ではないですけれど、解説した本をちょっと読ませてもらったら、周りの人がこの人はなにをやっているかわからなくておかしいんじゃないかと思うって、あるじゃないですか。あの話を読んでちょっと思ったんですけれど、やっぱり、だんだんだんだん自分を追いつめて、どんどんどんどん高い世界に登りつめていけばいくほど、心がついていかなくて、いわゆる狂気の世界に近づいていくということがあると思うんです。一度そういう世界に行ってしまったら、もう戻ってくることはできないじゃないですか。入口はあるけれど出口がないということがあるんです。そういうことに対してやっぱり多少、抵抗感みたいなものがあるのかな、と思ってますけどね。