許す力

許す力 大人の流儀4

伊集院静さんの「許す力」。

読むうちに、人間だものという気持ちになって(笑)、なんだか緩みました。

 

P14

 人が人を許す行為の中には、どこか人間の傲慢さが漂う。いや漂うのではなく、根底に人が人を上から見る発想があるのではないか。

 そう考えると、人や、人の行為を許せないで、いつまでもその人のこころの中に、許せないという感情が残るのは、むしろ人間らしいこころのあり方なのではないかと思う。

 新約聖書にはそれまでの宗教の教典とあきらかに違う、人間の行動のとらえ方が登場した。その中のひとつが許すという行動だ。

 よく知られる章は、姦淫の現場で捕えられたマグダラのマリアユダヤの律法学者と民がイエスの前に連れて行く。罪を犯したこの女をどう裁くのか、と迫まる。イエスは長い沈黙の後に言う。この中で罪を犯したことがない人から彼女に石を投げなさい。民たちは顔を見合わせ、一人、また一人と去って行く。最後にマリアとイエス二人になる。そこでイエスは、誰も石を投げず、誰もいなくなったのなら、私はあなたを許します、と口にする。イエスとて許すという行動には逡巡があったのである。

 許すという行動はかほど繊細な感情を必要とする。ただおぼろではあるが、許すという行動、許すことでそこから何かがはじまることはたしかなような気がする。