こちらの方も

根をもつこと、翼をもつこと (新潮文庫)

こちらの方も、すばらしいです。

P97
「あの、いったい、あなたって何をしてる人なんですか?お医者さんですか?どうしてそんなに病院や病気のことに詳しいの?」
 するとJは、ちょっと困ったような顔で、それからこう言ったんだ。
「実は、僕は、薬害エイズ訴訟の大阪原告代表なんです。それがまあ、肩書きと言えば肩書きかなあ」
「はあ?原告代表ですか?」
 薬害エイズ事件を知ってはいるものの、自分の身近な問題だと思っていない私にはピンと来ない。
「なんで、原告代表をしてらっしゃるんですか?」
 そんなことを私は言ったのだ。今、思うと大バカ者だ。でも、そう質問したくなるくらい、Jの態度が自然で、悲壮感とか、恨みとか、怒りとか、全く感じなかったんだよなあ。
「僕も被害者ですから」
 Jは淡々と答える。私はまだピンと来ない。
「ってことは、感染してるんですか?」
「そうです」
 ここまできて、私はようやく事態を飲み込んでくる。
「だって、普通にしてるし、ビールも飲んでるし……」
 Jは笑った。
「ほんとはいけないんだけどね、でも、ま、少しくらいならいいかなと思って最近は飲んでしまうんだよね」
「じゃあ、エイズなんですか?」
「はい」
 沈黙。
 こういうとき、ほんとに自分ってダメだなあと思う。全然、実感がわかないんだ。彼を前にしてもまるで。で、言うべき言葉も見当たらなくてぽかんとしてた。
「私、エイズの人って初めて会いました……」
 ようやく出たのがこんなセリフ。まったく自分でも嫌になっちまう。
 ・・・
 Jは、とっても優しいんだ。なんて言ったらいいかなあ。すごく落ち着いてる。魂がちゃんと身体の中心にいて、しかもガチガチに固定されてなくて、ゆらゆら楽しげに揺れているみたいな感じ。森を歩いているときも、海を見ているときも、世界を慈しむようにうっとり眺めてるんだ。・・・
 ・・・
「自分がエイズだとわかったとき、もし、誰かに感染させてたらどうしよう、そんなことになったらどうしようって、そればかり考えてた。自分が原因で誰かを不幸にしたら、もう生きている資格がないと思った。おびえてた。すごく怖かった。だけど、みんなに検査を受けてもらって、自分が誰にも感染させてないってわかったとき、僕は本当に、神様に感謝したんだ。ありがとう神様、って。本当に心の底から神様に感謝したんだよ。僕の大切な人たちを、誰一人、僕から感染させないでくれて、ありがとうって。あのときほど、ほっとして、うれしかったことはなかった。そしたら、なんだか怒りみたいなものが、自分のなかからすうっと消えていく感じがしたんだ。良かった、ほんとに良かったって、あの時はそれしか思わなかった」
 Jの言葉を聞くと、人間ってすごいなあ、と思う。
 人を愛するってすごいことだなあ、と思う。
 ほんとに素直にそう思う。