仕事の時間と私の時間

最後はなぜかうまくいくイタリア人

 なるほど、駄菓子屋のおばあちゃんの感覚、と言われたらよくわかりました。

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 わかりやすい例として、銀行の窓口業務をしている人と、駄菓子屋の店先に座っているお婆ちゃんを比べてみればいいだろう。銀行の窓口にいる人は業務を遂行していて、そこに「私の時間」が入り込む隙はない。ほとんど全人格的に業務に邁進しているのである。駄菓子屋の店番をしているお婆ちゃんも、たしかに駄菓子やメンコを売るという業務は遂行しているが、同時にそこはお婆ちゃんの本来の居場所であり、「私の時間」を十分に生きる場所でもある。知り合いが訪ねてくればおしゃべりもするだろうし、子どもたちと遊んだり、説教をしたりもするだろう。そしてそのついでに駄菓子を売ったりもするのである。
 ここでは公私の区別はきわめて曖昧で、それぞれの時間は簡単に行き来することができる、ゆるやかで寛容な世界だ。・・・
 イタリアは、皆が駄菓子屋のお婆ちゃんのように働いている国と考えればわかりやすいだろう。資本により売買されたはずの労働が、持ち主=労働者の勝手な解釈によっていとも簡単に取り返されて、好きに使われているのである。だから、契約概念がもっと進んだ国と比べると、・・・働いている人がどこか呑気で楽しそうなのだ。