魂でもいいから、そばにいて

魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─

お客様から教えてもらった本「魂でもいいから、そばにいて」を読みました。
震災後の不思議な話(亡くなった人から電話がかかってきたなど)を集めたものです。
人が人を思う気持ちの温かさに涙が出ました。

P13
 岡部さんは、岡部医院の看護師が津波で流された場所に立ったとき、人間の「死」を個人の死ではなく、大自然という大きな命の下につながって生きていた生命体が、大きな命に帰るという感覚が舞い降りたという。それを彼はイワシの群れにたとえ、人間はイワシの群れの一匹なのだと言った。作家の五木寛之氏が『大河の一滴』の中で親鸞の「自然法爾」を、<すべての人は大河の一滴として大きな海に還り、ふたたび蒸発して空に向かう>と説明したのも同じことだ。本来、人間には大自然という大きな命の一部だという感覚があり、それが人間の宗教性を培ってきた。東北にはそういった宗教心が、今も潜在意識の中でしっかりと流れていて、それが霊を見たり感じたりさせるのだろうか。大自然という大いなる命を、「あの世」、もしくは「彼岸」に置き換えればわかりやすいかもしれない。
「生者と死者をつなぐ物語がキーポイントかもしれませんね」、僕は言った。
 すると、岡部さんはこんな話をした。
石巻のあるばあさんが、近所の人から『あんたとこのおじいちゃんの霊が大街道(国道三百九十八号線)の十字路で出たそうよ』と聞いたそうだ。なんで私の前に出てくれないんだと思っただろうな、でもそんなことはおくびにも出さず、私もおじいちゃんに逢いたいって、毎晩その十字路に立っているんだそうだ」
 切ない話だったが、それを聞いてほっとすると同時に、思わず胸が高鳴った。これまで霊を見て怖がっているとばかり思っていたのに、家族や恋人といった大切な人の霊は恐いどころか、それと逢えることを望んでいる。この人たちにとって此岸と彼岸にはたいして差がないのだ。たとえ死者であっても、大切な人と再会できて怖いと思う人はいない。むしろ、深い悲しみの中で体験する亡き人との再会は、遺された人に安らぎや希望、そして喜びを与えてくれるのだろう。