食べることと出すこと

食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)

 そんな感覚があるんだ、なるほど言われてみればそうだな、など興味深く読みました。

 

P56

 ・・・私は、舌だけではなく、じつは触感に関しても、うるさい人間になってしまった。

 それには二つの理由がある。

 一つ目は、ずっと後になって手術をしたときのことだが、当然、しばらくお風呂に入れなかった。まず最初に許されるのが、髪を洗うことだ。

 自分ではできないので、看護師さんがやってくれる。理髪店方式で、頭を下げて前に突き出し、看護師さんがシャンプーをして、後ろ頭からお湯をかけてくれる。

 ただそれだけのことなのだが、これがとても感動的なのだ。頭を洗って、これほど感動するとは思わなかった。

 看護師さんが、「不思議とみんな、感動するのよね~」と言っていたから、私だけではない。

 頭を流れて行く、水の流れのひと筋ひと筋を感じるのだ。・・・悶絶するような快感ではなく、何か浄化されるような快感。

 意識が極度に、水の肌ざわりに向けられるからではないかと思う。

 この体験をして以来、私はシャワーを浴びるときなどに、少し意識しさえすれば、全身で水の流れを感じて、感動することができる。

 

P88

 フランツ・カフカは菜食で、小食で、間食もせず、アルコール類や刺激物もなるべくとらないという、極端な食事制限をしていた。

 健康のためにそうしていたのだが、病気だったわけではなく、むしろ極端な摂生のせいで弱っていった。

 だが、そういうカフカが、いつもよりよく食べるときがあった。

 それは、父親から遠く離れたときだった。

 たくましくて、大きく、なんでも食べて、ビールをあおる父親。そういう父親のそばでは、カフカはほんの少ししか食べない。しかし、遠く離れると、よく食べるようになる。

 生まれ育ったプラハから離れたときにも、いつもより食べるようになる。

 ・・・

 婚約解消をしたときにも、その足ですぐに肉を食べに行っている。

 菜食のカフカにとって、肉を食べるというのは大変なことだ。婚約中は、決して食べなかった。

 そして、ついに本当に病気になって、ずっと辞めたいと思っていた仕事を辞められそうな見通しになって、大好きな田舎に療養に行ったときにも、いつもより多く食べて、むしろ太っている。

 あきらかに、現実に対する拒絶が、食べないことと結びついていて、拒絶する気持ちがやわらいだときには、より食べられるようになっている。

 

P103

 相手が出した食べ物を、食べないということは、相手を拒否するということだ。

 ・・・

 手にのせた食べ物を、動物が食べてくれたとき、人はそこに信頼を感じる。

 ・・・

 だから、食べない相手に対して、人はいら立ちや怒りを感じる。

 ・・・

 緊張や遠慮で食べないのは問題ない。しかし、いつまでも食べないのでは、許せなくなってくる。

 ここが怖いところである。

 その怖さを見事に描いているエッセイがある。

 山田太一の『車中のバナナ』というタイトルのエッセイだ。

 ・・・

 山田太一が伊豆に用事で出かけ、鈍行で帰ってくる途中の出来事が書かれている。

 電車の四人がけの席で、気の好さそうな中年男性がみんなに話しかけ、わきあいあいと会話が始まる。

 その男性が、バナナをカバンから取り出すのである。

 

 娘さんも老人も受けとったが、私は断った。「遠慮することないじゃないの」という。

「遠慮じゃない。欲しくないから」

 

「あっ、そうなの」と言って、中年男性がバナナをカバンにしまえば、何事も起きない。

 しかし、こういう場合、たいていそうはならない。

 では、どうなるかというと、こうなる。

 

「まあ、ここへおくから、お食べなさいって」と窓際へ一本バナナを置いた。

 それからが大変である。食べはじめた老人に「おいしいでしょう?」という。「ええ」。娘さんにもいう。「ええ」「ほら、おいしいんだから、あんたも食べなさいって」と妙にしつこいのだ。暫く雑談をしている。老人も娘さんも食べ終る。「どうして食べないのかなあ」とまた私にいう。

 老人が私を非難しはじめる。「いただきなさいよ。旅は道連れというじゃないの。せっかくなごやかに話していたのに、あんたいけないよ」という。

 

 このくだりを読んだとき、私は本当に感激した。

 ああ、これだと思った。こういう目に何度も何度もあってきたのだ。それがじつに見事にとらえられている。

 ・・・

 山田太一は、バナナを食べなかった理由をこう書いている。

 

 貰って食べた人を非難する気はないが、忽ち「なごやかになれる」人々がなんだか怖いのである。

 ・・・

 ・・・バナナがあまり好きではなくても、お腹がいっぱいでも、多少は無理をしてでも受け取る人が少なくないと思う。

 しかし、そうしたくない人もいる。

 さらに、したくてもできない人もいる。

 ・・・

 山田太一は「次第に窓際のバナナが踏み絵のようになって来る」と書いている。中年男性のことを受け入れるかどうか、このなごやかな場を受け入れるかどうか、という踏み絵になってくるのだ。

 このように、食べ物は簡単に、ただの食べ物ではなくなる。だからこそ、山田太一はバナナを受け取らなかったのだ。そして、実際、その通りのことが起きたのだ。

 ・・・

 山田太一はハッキリ書いている。

 

 つまり、たちまち「なごやかになれる人」は「なごやかになれない人」を非難し排除しがちだから怖いといったのだった。

 

 よくぞ書いてくれたと、胸のすく思いだった。

 ねんのため付け加えておくと、前に紹介したように、山田太一は子どもの頃に戦争で食糧難を体験している。

 映画の中で、貧しい一家が食事のときにじゃがいもの皮をむいて食べていたというだけで、「なぜ皮をむくのか、なぜ残したのか、と無念でならない」と、その映画を否定するほどの人だ。

 栄養失調に苦しみ、口に入るものはなんでも食べた過去が忘れられず、今でも出されたものを残せないという人だ。

 バナナを粗末にできる人ではないのだ。

 それでも、このバナナは食べないのだ。

 

P124

 食べないことを許す人は、本当に少ない。

 その中で強く印象に残っているのは、宮古島の知人と初めていっしょに食事をしたときのことだ。

 私が宮古島に行ったときに、その人がたくさんのご馳走を目の前に並べてくれた。そして、「さあ、どんどん食べてくださいね」と。

 ・・・

 ほとんど食べずにいたので、これはそろそろ圧力がかかり始めるだろうと思ったら、いつまでたってもかからない。

「さあ、遠慮しないで食べてくださいね」とさえ言われない。相手は普通に食べて、普通に話を続ける。険悪な雰囲気になることはまったくなく、楽しく会話が続いていく。

 ついに最後までそのままだった。

 こちらが食べないことを変に思っただろうし、食べ物も残ってしまった。

 でも、そのことにはまったくふれず、「またいっしょに食事しましょうね」と言って、実際、その後も何度も誘われていっしょに食事をし、今も親しい。

 これは本当に稀有な例である。

 後で知ったことだが、この人も難病だった。といっても、私の病気とはちがって、食べることには何の支障もない病気。だから、どんどんお酒も飲むし、なんでも食べる。食べられない苦しみについては、知らないだろう。

 しかし、別の苦しみを知っている。そのせいで、何かの輪に入っていけないことがあったのかもしれない。どこかで排除される経験があったのかもしれない。

 そういう経験をした人は、他人にもやさしくなれる場合がある。相手の行動を不愉快に思ったときにも、「この人には何か、事情や理由があるかもしれない」ということを考える。そして、同じ色に染まらないからといって排除しない。

 

P263

 そもそも性格というのは、かなり身体によってできているのではないだろうか?

 病気によって身体が変化することで性格が変わるのも、そもそも性格が身体によってできているからこそだろう。

 心のほうが身体をコントロールしていると思われがちだが、むしろ身体のほうが心をコントロールしているように思われる。

 ・・・

 ベートーヴェンというと、こわい顔をして、人を寄せつけないイメージがある。

 それどころか、何か精神的な疾患があったんじゃないかという説まである。

 というのも、潔癖症でよく手を洗っていた一方で、「汚れた熊」というあだ名がつくほど服装に無頓着で、ホームレスと間違われて逮捕されたことさえあるからだ。

 しかし、ベートーヴェンの「身体」のことを考えると、これらのことはすべて納得がいく。

 ベートーヴェンは、小さい頃から身体が弱く病気がちだった。目の病気、天然痘、肺の病気、リュウマチ、黄疸、結膜炎、他にもいろいろな身体の不調で悩んでいる。

 そして、慢性的な腹痛や下痢があり、胃の調子がよくなかった。

 病気がちで胃腸が弱い人というのは、私もそうだが、口から入ってくるものに、非常に気をつける。だから、手をよく洗うし、潔癖症になる。

 そしてベートーヴェンは二十代の後半から難聴になる。そのために、人づきあいが難しくなった。

 孤独な生活を送っていれば、服装に無頓着になるのは当然だろう。・・・

 ベートーヴェンに初めて会って、あまりひどい格好なので、ロビンソン・クルーソーかと思った人がいたらしい。でも、彼はまさに無人島にいるような生活を送っていたのだから、それも当然だ。

 相手のことを詳しく知れば、異常に見えたことにも納得がいき、変な人に思えたのが、そうではないことがわかったりする。

 もちろん、ひとりひとりのことを、そんなに詳しく知ることはできない。

 でも、だからこそ、「何か事情があるのかもしれない」「本当はそういう人ではないかもしれない」という保留付きで、人を見たいものだと思う。

 そのわずかなためらいがあるだけでも、大変なちがいなのだ。