人生の流れ

木炭日和 (文春文庫―ベスト・エッセイ集)

20年近く前の本ですが、99年版ベスト・エッセイ集というのが実家にあったので読んでみました。
これは直木賞作家の杉本苑子さんのお話で、人生の流れって面白いなと印象に残りました。

P77
 ・・・本当の意味での処女作は私の場合、次にまたサンデー毎日の懸賞小説に応募した『燐の譜』といえる。これも能の面打ちの話だが、今度は入選し、御正伸さんの挿絵入りで掲載された。・・・
 ただし、この入選には幸運が作用している。毎日新聞社に原稿を送ってまもなく、当時、世田谷の等々力にあった我が家へ、見知らぬ男の方が訪ねてみえた。もはや五十年も前のことなので記憶ははっきりしないが、そのころまだ、国鉄と称していた現在のJRの駅員さんで「山手線の網棚の上に置かれていた遺失物ですけど、大事なもののようなのでお届けにあがりました」と、おっしゃる。見れば『燐の譜』の原稿である。末尾に住所氏名が記入してあったので、勤務先の品川駅からわざわざ等々力まで御足労くださったのだ。
 私は大いに恐縮し、受け取った『燐の譜』を再度、新聞社に送付したのだが、後日、係りの人の打ちあけ話によれば、最終予選にまで残った応募原稿のうち幾篇かを、自宅に持ち帰って再読するつもりで、山手線の中から読み始め、読み終わった『燐の譜』を網棚にのせたまま忘れて来てしまったのだそうだ。
「ま、編集者とすれば失策ですからね、『あの作品が、もし入選したら面目ない。どうぞ落ちてくれますように』と内心、祈っていたのですよ」とのこと……。「わあ、ひどいですねえ」と言いはしたものの、入選のあとではお互いに笑い合って済んだ。お礼に伺った駅員さんも「おめでとう」と祝って下さったけれど、もし忘れ物の紙の束というだけで捨てられてしまったら、この作も永久に日の目を見ずに終ったところだし、私という作家も存在しなかったはずである。
 ・・・
 人間の生き方には、細密な計画を立て、その図引きに従って一つ一つクリアしてゆく部分と、まったくの偶然に翻弄されて良い方へ、あるいは悪い方へ、心ならずも方向転換させられる部分の、両面がある。かならずしも計画通りにはいかない偶発的な絡み……。それがあるゆえに人生は「怖い」とも、反面「愉しい」とも言えるのかもしれない。