自分って?

生きるのが楽になる 「覚り」の道の歩き方 「一元」に触れる京都大原三千院の読経CD付

自分はあるけどないんだな〜…という感覚、だんだん慣れてきたような気がしつつ…すぐまた薄れちゃったりしつつ…(苦笑)

P166
阿部 ・・・やっぱり、どうしても人は「私はどうしたら覚れるのか?」ってなることなんだ。でも、それはあり得ないんで。―だって、私が覚るんじゃないから。覚りはただ、ある。その求めている自分がないとき、覚りと自分との分離感がないときに、ある。
「覚っていることに気づく」ということでもないんだ。そこにはまだ、「気づいている自分」という主体がいて、分離しているでしょう。・・・
 でも、結局、人は「私」を前提にしてそういう情報に触れるから、どうしたって、「私はどうしたら覚れるのか」ってなる。「分離している私はどうしたら、分離感をなくすことができるだろう?」っていう、冗談めいた話になっちゃう。・・・
 ということは、まず、探究をやめようよ。まず、くつろごうよ。「まずはお茶でも一杯」(笑)。・・・
 ・・・

堀澤 ほんと、自分がいないというのが原点なんだよ。でも、「だって、自分、いるじゃない?」「世界には戦争もある。善も悪もあるじゃない?」って。しかし、そこを空で突き抜けてしまえば、よかれあしかれ、すべては起きているとわかるんだな。

P170
堀澤 ティクさんの「波と水」のたとえ話も面白いね。あれ、わかりやすいわ。
 我々は波のようなもの。一つひとつの波は「その個としてのいのち」を生きているが、同時に「水のいのち」をも生きている。
 多くの人は自分を波だとだけ、思っている。そう思っているうちは、まだ色(実有)にあるんだ。しかし、絶え間なく変化し続ける波であると同時に、本質的に何ひとつ変わらず、滅することも生じることもない水である―。そう覚った瞬間から、人は生と死という概念から解放される。・・・

阿部 ・・・波っていう「実体」があるわけじゃないんだよね。「波、持っておいでよ」って言っても、誰も持ってこられないじゃない?色は実体じゃなく、現象、動きなんだ。
 でも、水は持ってこられるよね。なぜって、実体だから。
 ところが、波は「自分って、何だろう?」って考えたときに、「水」という本質を忘れて、その波の形と自己同化してしまう。「これが自分だ」と。それで、隣の波と比べてさ、「どっちがデカい」とか、「どっちの生まれがよかったか」とか(笑)、そうやって一生懸命、自分というもの、アイデンティティを見い出そうとするわけです。

堀澤 自分が水であることに気づかないうちは、「もっと大きな波になろう」とかね(笑)、「もっと美しい波になりたい」とか希求する。果てしなく。
 すると、常に心はおさまらないんだ。満ち足りることがない。

阿部 で、言うわけだ。「波である私はどうやったら水になれるのだろう?」って。