忘れ物

ただの私 (講談社文庫)

 「ビートルズ展」に寄せられたというエッセイ、そのままの風景、ヨーコさんの表情まで見えるようで、印象に残りました。

 

P227

 はるばる日本に来たんだから、やっぱり二、三日行ってみようか。そんな軽い気持ちで九年振りに、夏の軽井沢に行ってみた。

「別荘はあれからあんまり使ってないから、きっとカビ臭いわよ」と母がいうので、ホテルにとまった。それでも何となく魅かれて、夕方、別荘に行ってみた。

 草がのびてる。ジョン、ショーンと私が朝夕自転車で往来した径、ジョンがジョークをいったりするので、三人とも、笑いが止まらなかった径、それが、今はひっそりしていた。

 鍵を入れて廻すと、コトッという音がして、ドアが静かに開いた。床にショーンのおもちゃがころがっている。ジョンが読んでいた本が、まだそのままテーブルの上にある。電話のわきには、懐かしい吸いかけのジタンの箱があった。

 寝室に使っていた部屋の戸を開けると、埃をかぶったギターが目についた。

「毎年来るんだから、これはここに置いて行くよ」といったジョンの声が今でも聞こえるようだ。

 ジョンのギター。夕食のあとなぞで、これを弾きながら、ショーンに歌ってきかせたりしていたジョン。軽井沢のジョンはとてもリラックスして、楽しそうだった。

 別荘の戸を閉めて、ホテルに帰る。

 翌朝、昔ジョンとしたように、朝早く起きて自転車の遠乗りに出た。旧軽からずっと行って、中軽の少し手前の道を奥に入ったところの木陰に、静かな、品の良い喫茶店があった。

 ジョンはショーンを自転車の前に乗せて、その辺まで来ると、必ず「のどがかわいたから、コーヒーを飲もう」と、その喫茶店に寄ったものだ。

 あの喫茶店、まだあるかナ、と道を曲ると、昔のままにちゃんとあった。そこで坐って、コーヒーを飲んだ。突然、「ヨーコ」とジョンが肩をかるくたたいたような気がした。「何なの、ジョン」と心の中で聞いた。「みてればわかるよ」

 少したって、店のご主人が出ていらっして、「これはこの前いらっした時に、ご主人が忘れていらっしたものです。奥様にお返しします」と、ジョンのライターを返してくださった。九年間もライターを取っておいてくださったわけだ。

 以前、家族三人遠乗りの帰りに、もう旧軽に近くなったところで、急にジョンが「あ、ライターを喫茶店に忘れてきちゃったよ。まあいいや、明日また行くんだ。多分取っておいてくれるだろう」とつぶやいたのを思い出す。

 喫茶店のオーナーご夫妻にさよならをいって外に出る。そして、そっとライターをつけてみた。ジョンのライターは九年間の年月も知らないように勢いよく火を出した。

「みてればわかるって、このことなのね、ありがとう、ジョン」

 見あげると、山に囲まれた軽井沢の空が、まぶしそうに光っていた。