悟りの最終段階

瞑想法の極意で開く精神世界の扉

「精神世界の扉」には、悟りの最終段階がこのように書いてありました。

 

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 ここまでの四段階のサムプラジュニャータ・サーディ(有想三昧)は、ビージャ・サマーディ(種子をともなうサーディ=有種子三昧)あるいはサーランバナ・サマーディ(補助をともなうサマーディ)と呼ばれる。

 ではなぜ「種子をともなう」とか「補助をともなう」という表現が使われるのかというと、サマーディを得るために「種子」または「補助」が介在するからである。

 もう一度4つの段階を判りやすく説明すると、対象を認識する(第一段階)、対象と一体になる(第二段階)、タンマートラを認識する(第三段階)、タンマートラと一体になる(第四段階)、という具合になり、「対象」という補助か「タンマートラ」という種子が介在していることが判る。

 したがって、この四つの段階を超えた、サマーディの最終段階のアサムプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)は、ニルビージャ・サマーディ(種子をともなわないサマーディ=無種子三昧)と呼ばれる。

 有想三昧の4つの段階を実体験することで、人は真理を保持する智慧を得る。これはすでに、「種子をともなわない」サマーディへの通路である。つまり、有想三昧の4つの段階を一段ずつしっかりと踏み締めて昇っていくことで、確実にアサムプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)を手中に収めることができるのである。

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 最後にサマーディを超える、ということについて考えてみよう。つまり、アサムプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)に至れば終りなのか、を考えてみたい。結論から先にいえば、アサムプラジュニャータ・サマーディに至ったからといって終るわけではない。

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 アサムプラジュニャータ・サマーディに至ったら、すべてが終るということではない。最終的には、「生きることの本質」「宇宙の真理」「究極の悟り」を得て、すべてから解放され、「真の純粋状態」に帰することである。

 真の純粋状態に帰するということは、当然仏陀やキリストのレベルを超えなければならない。霊能者、教祖、超能力者、聖者、覚者など、どんな名前で呼ばれる存在になっても、それは「真の純粋状態」ではない。真の純粋状態という表現すらも当てはまらないほど、純粋そのものという状態に至ると、言語、文字、映像などのどんな表現方法でも表せなくなり、ただ黙々と存在し、時がくれば消滅するだけとなる。