「家族とは何なのか問題」も、著者の「自由」に関する考察なども、とても興味深く読みました。
P3
歩きながら話す。
「あの、Nさんの本、読みました。面白かった」
「おお、よかった」
「面白かったし、多分私たち似てるんだろうなって」
「うん、それは俺も思った」
「私の人生のテーマも多分ずっと『自由』で、自由であることを求めてて、普通に生きられないことを子どもの頃からずっと悩んでいたので」
「ほんとうに自由な人は、とらわれないから枠を気にせずに生きられるし、普通の生き方が困難なくできる人も、枠を意識することなく生きられるだろうし。僕らはちょうど境界線の上にいるんじゃない」
「うん」
「俺たちみたいなのだけが、ただ息をしているだけで何度も『普通』の枠に何度もぶつかって苦しむから、枠の存在を意識せずには生きられないんだろうね」
P88
私はもともとフェミニズムに限らず、子どもの頃から、社会や世間から「~でなければならない」「~であるべき」と無意味な習慣や前時代的な考えを押し付けられることが苦手だった。その耐性が著しく低いせいで、普通に学校に行くこともかなりしんどかったし、普通の親が子どもに言うような命令や指示も受け入れることができなくて、ただそこにいるだけで大変だった。そんな自分にとってはフェミニズムの本はたいてい「こうでなければ」の呪いを解いてくれるものであり、新しい考え方を教えてくれるものであり、心を自由にしてくれるものだったので大いに共感していた。
そんな自分が、自分の生き方に沿って選書をすれば、自然と「もっと自由に生きよう、結婚・出産はしてもしなくてもいい。誰かに依存せずに自立して生きていこう」という本ばかりになってしまう。
でも、それでいいのだろうか?それはちょっと違うんじゃないか?
たとえば夫に愛されることを望んでいる人。仕事をせずに家庭を支える生き方を選んだ人のことを責めるような店になってはいけないのではないか。愛されることがすべてと盲信して自分を見失い、依存の関係になってしまうことが問題なのであり、愛されたいと願うことは何も間違っていない。
「明日のデートに何を着ていったらいいのかな、どんな服だったらかわいいと思ってもらえるだろう」と考えながらわくわくと本屋に来た人に、
「愛され服などもってのほか!もっと己を持て!そんな媚びた精神の本は一冊残らず燃やしてやったわ‼ワハハ‼」とその心を潰す資格があるのだろうか?
いや、そう発言する人や、そういう店があってもいいと思うのだが、それは、ここでの私の仕事ではない。気がする。わからないけど。
「女性差別とは何か」「私たちは不当に何かを押し付けられているのではないか」という問題を考えたいときに、役に立つ本が揃っている本屋でありたい。
同時に、「難しいことは今日は何も考えたくない。仕事つかれた。ひたすら嫌なことを忘れて、楽しくてやさしいものに出会って癒されたい」というニーズもかなえられるような本屋でありたい。
キラキラした空間にしたい。あれもこれも、手に取りたくなる本ばかりで、来たら元気になれる店。ワクワクするような本がいっぱいの店。自分ももっとこんなふうになりたいな、とか、がんばろうと思える店。
同時に、「キラキラしなければ女として価値が低い」という呪いを植え付ける店にはなりたくない。もともと本の役割は、日陰や暗闇に価値を見出し、そのあり方に寄り添うことがメインみたいなものだ。だから極端な話、ずっとキラキラしていられて、悩みもないなら、本なんて読む必要はないのだ。
……と、理想を掲げるのはかんたんで、考えれば考えるほど自分の理念の崇高さにドヤ感(?)でいっぱいになり胸が熱くなるのだが、そんな形而上学的には可能な店の現実化は可能なのだろうか?可能なのだろうか?っていうか、今からそれを全部成立させる店のあり方、棚のあり方を全部自分で考えて1冊ずつ発注して並べなきゃいけないのである。無理な気しかしない。
P144
「ねえ、麻雀やろ」
それぞれが思い思いに過ごしていた土曜の夜、突然ミナトが切り出した。・・・
・・・
・・・トンにも、
「ミナトが麻雀やろうって言ってるよー」と声をかける。
同時に、何か話があるのではないかなと思った。ミナトは麻雀のとき、話が止まらなくなる。
普段はなかなか会話の時間がないから、麻雀でもして顔を突き合わせることで、それぞれがスマホとタブレットから手を離さないと、話ができない気がする。
・・・
東2局くらいでさっそくミナトが切り出した。
「最近学校行くの嫌なんだよ」
きた。
「へー、そうなんだ。何かあったの?」
けっこう大きい話かもしれないぞ、と思いながら驚かないようにして聞く。
「うーん」
「ともだち系?」
「うん。……なんかさ、村田とかがすごいひやかしてくる」
「ああー。マイちゃんのこと?」
「そう」
林間学校に行って以来、恋の話がクラスで盛り上がっているらしい。そんなこんなの話題のうち、ミナトがクラスのマイちゃんという子に好意を寄せていることが徐々にバレてクラスみんなの知ることとなり、そのことでミナトは傷心していたが、なんとマイちゃんもミナトを好きだったという展開からクラス公認のカップル(?)となり、上がるテンションを抑えきれずにいたのが最近のミナト氏であった。
ここは否定しない論法でマイルドに近づこう。
「やだよね、そういうの。答えようがないしね」
「そう」
よし。1点。
トンも参加する。
「具体的にどういうことを言われるの?」
「うーん……」
「たとえば、もうキスしたのかよー、みたいな?」
「まさに」
「それはやだね。やめて、とは言ってるの?」
「言ってないけど」
「言ってみれば?」
「……でも、さむくなるのがやなんだよな」
つまり、「やめてほしい」と言うことで場の空気が悪くなったり、ノリの悪いやつ、と思われることが嫌だということらしい。そんなこと気にしないでいいのに、と思うけど、小学生のときってその社会性がすべてだった気もする。
「ああー、空気ね」
「なにマジになってんだよ、みたいな」
「どうだろうなあ。そうなるとは限らないと思うけど、でも空気を壊したくないわけね」ひたすらカウンセリングのような戦法で共感ベースで聞く。ありがとう、いつか読んだなんかの傾聴の本。
「うん」
「あ、じゃあさ、みんなのいるところではとりあえず流しといて、あとで村田くんだっけ?2人で話せそうなときに、怒った感じじゃなくて、お願いする感じで『ああいうの言われても照れちゃってうまく返せないからナシでお願い~』とか言ってみるのは?」
我ながらいい案だ。
「うーん、ちょっとそういうのは無理」
あ、無理なんだ、そうなんだ……。難しいな。
「それはさ、マイちゃんのいる前での話なの?」
「うん」
「マイちゃんも嫌がってるのかな?」
「笑ってる。けどわかんない」
「聞いてみれば」
「無理」
「なんで」
「話せない」
「どういうこと?」
さらに話をよく聞くと、両思いということになってからというもの、ミナトは生まれついてのシャイボーイっぷりを発揮して、一度も2人っきりで話したことがないらしい。会話や連絡事項はすべて仲介役(?)の世話焼きな友達を通してお互い伝えているという。
「え……でもさ、マイちゃんに嫌じゃないかどうか聞いて、マイちゃんが嫌なら、僕がやめさせるから、みたいのがかっこいいんじゃないのー?」
と冗談半分に言ったが、相手の気持ちを考えて行動する、という選択肢はそもそもミナトにないらしく、自分の恥ずかしさと、クラスの男子たちのあいだで浮かないことが大事なようだ。
それはあまりかっこいいとは言えないんじゃない?と苦言を呈すべきか迷ったが、やめておいた。これは多分、同年代の友人にすら歓迎されない、求められてもいない持論を語るやつになってしまいそうな気がしたから、犬山紙子さんの『アドバイスかと思ったら呪いだった。』で言うところのクソバイスだ。
・・・
結局この悩み相談はその後大喜利大会みたいになったあげくに、ミナトがめんどくさくなったのか、話しているうちにそれほどでもないと思えたのか、
「まあ、でも、そんな嫌じゃないのかもしれない。たいしたことじゃないのかも」
と言って自ら回収してしまった。最終的に、思いを伝えられない自分の気持ちを、いかにback numberの歌詞が代わりに表現してくれているか、いかにそれに救われているか、という「back number最高」という話で終わった。
・・・
誰かを自分の思い通りにしようとすると支配欲で心が汚れて、神経が摩耗するからなるべくそう思いたくない。誰がどんなふうに生きてもかまわないよ、と思っていれば無責任で気が楽だ。「正しく教育する」ことと「思い通りに育てる」の違いはなんだろう。美しい魂を持って子育てしている人たちは、何を基準にその判断を下し、実行しているのだろうか。私は今まで恋人とも、結婚していた人とも「私の思い通りに変わってほしい」と思うのが苦手で、「合わないなら別れればいいじゃない」でやってきたから加減がわからなくて難しい。
