こちらも食べもの関係のエッセイ。
内容ももちろんですが、平松洋子さんの文章は、なんだかとても楽に読めて好きです。
P61
「おべんとうの時間」と題したページ。どおんと大きな、真俯瞰で撮られた弁当の写真が掲載されているのを初めて見た十数年前のことを、今も覚えている。飛行機の座席で見たのは、それがANAの機内誌だったからだ。
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・・・クレジット「文・阿部直美 写真・阿部了」。たぶんご夫婦なんだろう、いいコンビなんだなと勝手に想像するのもうれしいのだった。
その阿部直美さんの新刊『おべんとうの時間がきらいだった』(岩波書店)を読んだ。日本各地を旅しながら弁当の背景を綴ってきた本人が「きらいだった」とは穏やかではない。・・・
直美さんの記憶をざわつかせる弁当は、冷たいカレーとご飯だけ、きんぴらごぼうと煮物だけのおかず、前日の夜、父の怒鳴り声を浴びたハンバーグの残り……「彩りを、考えてよね」と訴えても、忙しい母は馬耳東風。中身を見られたくない自分の弁当に残酷さを教えられたと書く。
「自分が背負っている家族を、小さな箱と向き合う度にいつも突きつけられる」
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結婚して夫のサトル君が「普通の人の弁当を撮る」と宣言したときから、二人三脚の日々が始まった。ある日、夫が作ってくれた弁当に添えられた佃煮を見て、直美さんは自分の母の弁当になかったものの正体を発見する。
「おまけ、あそび、寄り道という類いのもの。スーパーの中で、いつも行かない売り場に寄り道して佃煮を見つけ、ばあちゃんを思う、そのほんの一瞬の時間」
家族を背負った弁当、鼻歌まじりで楽しげに作られる弁当、ふたつの距離がぼろんと露わに提示され、その距離によって、直美さんを縛っていた家族の呪縛が解かれてゆく。
小さな箱のなかに詰まっている泣き笑いの感情こそが弁当の味。そんな弁当を作りたい、作ってみたい、食べたい。
P66
このお兄さんの喋りはイケている、と長年思いながら買物をしてきたが、都知事が外出を控える要請を出した翌日も、さすがだった。
地元の八百屋の軒先。段ボール箱をベリリと開けて中身のカブを棚に並べながら、誰に語るともなく大きな声で呼びかける。
「だいじょぶだよー、心配しないでねー、煽られないでねー。仕入れはいっぱいしてるから、明日もたくさんあるよー」
じわっときた。お兄さんは八百屋のベテラン店員で、店の外で仕入れの野菜を並べたり整えたり、とにかく忙しい。作業の合間に繰り出す売り文句に、いつも味がある。「大根が安いよ、大きいのがヤだったら半分に切るよー」とか「筍が入ったよ、ゆでておいたからすぐ使えるよ」とか。威勢のいい声に背中を押されるのだが、それと同じ調子で叫ぶ「だいじょぶだよー」「煽られないでねー」が、緊張感のある毎日のなか、すとんと届く。
ピーマンやセロリを買い終えて店を出ると、また大声が聞こえてきた。
「さあ、ねぎはどうかなー。ねぎがあったらお料理なんでも作れるからねー」
商売第一。さすがだなと思いながら、耳がずっと「だいじょぶだよー」の響きに温まっていた。