器の大きさというか・・・

オーラの素顔 美輪明宏の生き方 (講談社+α文庫)

 この話、すごいなぁ…と感動しました。

 

P338

 美輪の人間性をあらわす象徴的なエピソードをできるかぎり紹介してきたが、残念ながら書き切れなかったものもたくさんある。最後に、私が美輪明宏という人物の深さに心を打たれた話を紹介して、本書の締めくくりとしたい。「銀巴里」で美輪の前座を務めていたシャンソン歌手の友部裕子から聞いたエピソードである。

 一九九〇(平成二)年十二月に東京・池袋にある「東京芸術劇場」のオープニング記念公演として、美輪は『マリー・ローランサン』の脚本・演出を引き受けた。その舞台で友部は花売り娘の役をもらい、場面転換の合間に一曲ずつシャンソンを歌うことになった。

 しかしその初日、マイクチェックで舞台に上がった友部は、突然照明が暗くなったために大道具に脚を引っ掛け、舞台から落ちて片足を骨折してしまった。病院に運ばれて医者からレントゲンの結果を告げられたとき、友部は目の前が真っ暗になった。

 茫然自失のまま、美輪に電話をかけて骨折したことを知らせた。

「ご迷惑をおかけしてすみません。医者から『公演を休みなさい』と言われたので、そうさせていただきます……」

 と消えるような声で伝えた。

 すると美輪は即座に、落ち着いた声で友部に問い返した。

「あなた自身はどうしたいの?」

「はい……。松葉杖をついている状態ですけど、歌えるなら歌いたいです……」

「あなたがそう思うなら歌いなさい。昔の花売り娘は可哀想な境遇だったから、松葉杖をつきながら舞台に出てきてもおかしくないわよ。そういう花売り娘の気持ちになって歌いなさい。もしそれでもあなたが歌えないようならば、私が代わって歌ってあげるから」

 美輪からそう励まされて友部は嬉しさのあまり涙ぐみ、松葉杖での出演を決心して千秋楽まで歌い続けたという。

 私はこの話を聞いて鳥肌が立った。当時の美輪の境遇を知っていたからだ。

 九〇年の『マリー・ローランサン物語』東京公演の初日は十二月八日であるが、まさに美輪自身が絶望のどん底にいたはずである。そのわずか二ヵ月前に恋人だった青山竜三が急逝し、なおかつ銀巴里がその年いっぱいで閉店すると決まった頃なのだから。

 難病に冒された体調が悪化の一途を辿っているときに、青山の死と銀巴里の閉店という二つのショックが重なり、「あの頃は死を強く意識するほど憔悴していた」と、美輪自身が後に振り返っている。だが、そんな時期でも美輪は、芝居の脚本と演出をこなし、怪我を負った後輩歌手を励まし、劇場のこけら落とし公演を成功させたのだ。