「世界を、こんなふうに見てごらん」を読みました。
タイトルの通り、いろんな生物が、この世界をどんな風に把握しているのだろう?と想像をふくらませることで、世界の見え方が変わりました。
読んでよかったです(^^)
P42
・・・ぼくが手がけた翻訳書のひとつに『鼻行類』・・・という本がある。今は消滅した群馬に生息していたという、鼻で歩く奇妙ないきもののことを記述した本だ。
翻訳しているとき、周囲にはさんざんにいわれた。だいたいそんな動物はいない。そこに書いてある話はうそに決まっているじゃないかと。
ところがそこにはみごとな理屈があり、鼻行類という生物種がいて、その中でも肉食のもの、花に擬態するものなどさまざまに分かれていて、それぞれどうやって生きているかまで細かく書いてある。解剖図まである。
そういう、いわば理論生物学とでもいえる話を、ハラルト・シュテンプケというドイツ人が考えた。
人間は理屈にしたがってものを考えるので、理屈が通ると実証されなくても信じてしまう。
実は人間の信じているものの大部分はそういうことではないだろうか。
いつもぼくが思っていたのは、科学的にものを見るということも、そういうたぐいのことで、そう信じているからそう思うだけなのではないかということだ。
本来いない動物の話を、あたかもいるように理屈っぽく考えて示すと、人はそれにだまされる。
・・・
・・・はじめからうそだとわかっているものをやるのは研究者としてよくないと、その当時ずいぶん怒られた。
それに対してぼくはこう答えていた。人間はどんな意味であれ、きちんとした筋道がつくとそれを信じ込んでしまうということがおもしろかったので、そのことを笑ってやりたいと思って出したのです。わたしたちはこっけいな動物だということを示したかったのです、と。
・・・
著者は、よくぞここまでというくらい、いっしょうけんめい考えた。それは、遊びとしてすごくおもしろい遊びで、人間はその遊びがすごく好きなのだ。そしてそうした遊びに足もとをすくわれたりもする。そういう動物はほかにいない。
・・・
何が科学的かということとは別に、まず、人間は論理が通れば正しいと考えるほどバカであるという、そのことを知っていることが大事だと思う。
そこをカバーするには、自分の中に複数の視点を持つこと、ひとつのことを違った目で見られることではないかと思う。