パリの国連で夢を食う。

パリの国連で夢を食う。
「パリでメシを食う。」が面白かったので、「パリの国連で夢を食う。」も読んでみました。
ほんとに世界にはいろんな人がいるな〜と、知らなかったことばかりで楽しかったです。
ここは、著者を素敵な人だなーと思ったところ…

P253
 この「ま、なんとかなる」は非常に厄介な代物だ。楽天的ともとれるが、要するにどこか真剣味に欠けている。しかし、これは私の元々の性格のようだった。
 人は、「アメリカに留学して、現地で就職して、大手シンクタンクを経て国連に入り、英語の他にもスペイン語とフランス語を多少話せる」ということを知ると、私のことを「すごい努力家!」と思うようだが、それは誤解である。私はただその場の思いつきに身を委ね、「なんとかなる」と行き当たりばったりに決断し、タイミングよく転がってきたサッカーボールでシュートするみたいに生きてきただけだった。最近ではソルボンヌ大学で働き始めたのがいい例である。(*ソルボンヌ大学にちょっとでも通ってたって言ったらかっこいいかな、授業取ってみたい、と話していたところ、友人が「知り合いの先生がいるから相談してみなよ」と言ってくれ、話に行ったら「生徒は生の現場の声を聴きたがっている」と、逆に大学院生に『開発プロジェクトの事後評価』という授業をすることになってしまったという話)あんな風に、偶然に目の前に転がってきたものに飛びついて、後で帳尻を合わせるのに必死になるのだ。
 そもそも、私が国際協力の世界に入ったのは、世界を変えたいからではなかった。大学院生の時に、コスタリカで出会った女性に恩返しをしたかったからなのだ。それは、三ヶ月間のスペイン語留学をした時のことである。
 ・・・
 ・・・どうしようと思っている間に、バスは動き出した。本当に何も恩返しをしないまま村を出発してしまった。
 しかし、その後、山道を下りるバスに揺られながら、自分はなんてケチだったんだ!とショックを受けた。でもいいや、サンホセでまた会える、と自分を納得させた。
 けれど、その後エリザベスに会うチャンスは二度とやってこなかった。きっとサンホセに来る用事なんか最初からなかったに違いない。
 考えれば、考えるほどに情けなくて、こんなケチな自分をなんとか変えていかなければ、と痛烈に思った。それが、ひとつの原体験となり、あれ以来ボルーカ村みたいなところにまた行きたい、と熱に浮かされたように思うようになった。そして、国際協力という仕事につけば、またあんな村に行けるし、誰かの役に立ててるはずと単純に思っていた。社会に出ていなかったあの頃、すべてはシンプルだった。
 あれから、確かにずっと頑張ってきた。でも、それは「自分の夢や目標に向かって邁進する!」とか、「世界を変える!」というのとは何かが違った気がする。私はただ、目の前の小さな目標に一生懸命だっただけだ。あえて言うならば、私は世界を変えたかったのではない。いつも自分を変えたかったのだ。