「受け入れの法則」の中に、三千院門主の堀澤祖門さんの話が出ていて、この本を読んでみました。
とても気持ちが落ち着いたので、何かもやもやざわざわすることがあったらコレをまた読もうと思いました。
ここは阿部敏郎さんが覚りの体験について語っているところです。
P28
あれは昭和60年3月のことです。その一年前に小さな一瞥体験をしていたぼくは、すべての仕事を辞め、インドの覚者の本を読んだり、自己流で瞑想したりしていました。
その時間はとても美しいものでしたが、いつのころからか、社会を後にした自分に新たな特別意識を持ちはじめていました。同じように精神世界に目覚めた仲間と、どちらの覚りがより高いかを競争していたのです。
そんな自分に気がついてからは、何もかもが嫌になっていました。
せっかく世間を後にしたのに、これでは元の木阿弥です。
ある日、そんなライバルである仲間たちの前で、急に大の字に横たわり、手足をバタバタさせて泣き叫びたい衝動に駆られました。
それくらい極端なことをしないと、胸のモヤモヤが取れないような気がしたのです。
次の瞬間、ぼくはドタンと仰向けに寝転んで、ギャーギャー叫びながら、のたうち回っていました。精根尽き果て、もうこれ以上やったら気を失うというくらいまで泣き叫んだことで、そのうねりが去ったときには、この世のものとは思えない静寂が訪れていました。
そして力が抜けたあと、「それ」が突然起きたのです。
そこにあったものは、時空間を超越した「いまここ」でした。
自分が消え、それとともに自分以外のすべても消えていました。
永遠のいまの中で、全体として息づいている、とてもダイナミックなエネルギー。
歓喜と祝福に包まれた神秘なるもの。
「それ」があらゆる森羅万象を生かしている命そのものだと理解しました。
しかしその理解は自分に起きたのではなく、自分が消えたときに、全体が全体を理解したというような感じです。言葉ではここまでしか言えませんが、その気づきの次元は、こうして原稿を書いているこの現象よりはるかにリアルでした。
いつも現実と呼んできたこれら表面的な出来事は、単なる夢のようなものだったことも知りました。実際にはいまも、その次元によって我々は生かされていて、表面的に何が起きていても、誰一人例外なく、すべての人たちは最初の最初から救われていて、これから先も、もちろんいまも、ずっと祝福の海の中に暮らしているので、何があっても大丈夫なのです。
「本当に、本当に大丈夫だからね」
これが一番、伝えたいことです。