桐島洋子さん

ほんとうに70代は面白い

桐島洋子さんの本、価値観やバイタリティーに刺激を受けつつ読みました。
こちらは生甲斐について書かれていたところです。

P54
 末期癌の友人の「生甲斐探しだのなんのって贅沢な話だよなあ。ぼくなんて、一日でも多く生きたいと思うだけだよ」という呟きが忘れられない。
「生きてるだけでもめっけものなんだから、また朝日に会えた、有難う。また家族と話ができた、有難う。また朝飯を食べられる、好物の目刺しと蜆汁をまた味わえた、有難うという感じで、一刻一刻のあらゆることが、むしゃぶりつきたいほど愛おしいんだ」という境地で数カ月生きてから、彼は安らかに亡くなった。考えてみれば彼も彼なりに生甲斐を掴んでいたのだ。
 目刺し一尾だって立派な生甲斐になる。社会的成功や栄誉や名声を生甲斐にする人生が、日常茶飯のささやかな喜びを生甲斐にする人生よりも豊かに充実しているとは限らない。
 ・・・
 幸い私もかなりそれに近い状態で、普通の生活に散りばめられた当たり前のこと、例えば朝一番のコーヒーの香りから夜更けにもぐり込むふとんの暖かさに至るまでがいちいち仕合わせで、これだけでも生きている甲斐があるなあと思ってしまう。
 ・・・
 小市民的と言わば言え、ともかく日常的な細かい生甲斐がいっぱいあるほど仕合わせは安定するようだ。さらになるべくならボランティア活動など利他的な生甲斐を持ったほうが仕合わせが効率よく増殖する。
「慈善」という日本語だと、何か高みに立って可哀想な人たちに施しをするようなイメージがあって気恥ずかしいし、売名や免罪符に使う連中もいるのが目障りで私はどうも参加が億劫だった。
 しかしアメリカやカナダにいると、ボランティアは当然自然の習慣として市民生活に浸透しているので、いつでも気軽に参加して自分の時間や能力を活用することができる。そこに人助けをしてやるという恩着せがましさは全くない。ボランティアは自分の喜びのためにさせて頂くことである。もうお前に用はないとお払い箱にされた無力感、疎外感ほど、人をガクッと老い込ませることはない。まだ人の役に立ち必要とされるという自信と、社会との連帯感が何よりの生甲斐になるのだ。