ここまでのことになっているとは・・・驚きでした。
P5
2023年のサンフランシスコ。
弟夫婦とともに、介護施設にいた叔母を訪問したあの夏の日の出来事が、こんなにもその後の人生を変えてしまうことになるとは、その時の私には知る由もなかった。
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二度の脳梗塞で視力を失い、大好きな読書もできなくなった叔母は、自力で人生の幕を引くことさえ禁じられ、文字通り絶望の真っただ中にいた。
だが、ある一本の法律が、彼女を救うことになる。
<終末期選択法><End of Life Option Act>。
2015年に、当時のジェリー・ブラウン知事が署名して成立したこの法律は、文字通り、自らの意思で命を絶つ権利を認める法律だ。
医師が薬を注入する「安楽死」ではない。医師が処方した致死性の薬を、患者本人が自分の意思で服用する、自己責任バージョンだ。
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条件を全て満たしていた叔母の申請が、速やかに審査を通過したという知らせが届いた時、彼女は泣いて喜んだ。
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最後の日。窓から西海岸の暖かい光が差し込む部屋には、満面の笑みの叔母が、冗談を言う声だけが響いていた。
彼女は「ありがとう」「ありがとう」と、部屋にいた皆に向かって何度も感謝の言葉を口にすると、明るく「バイバーイ」と言って錠剤を水で飲み込み、自らの意思で、その長い旅路に幕を引いたのだった。
あとになってこの時のことを話しながら、弟は私にこう言った。
「ある意味、すごい幸せな死に方だったのかもな」
だが日本に帰国した私の方は、底の見えない暗闇から抜け出せなくなった。
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なぜ命を絶った彼女が最後まで満面の笑みを見せ、なぜ生きている私がこれほど苦しいのだろう?
P25
2025年11月。マンハッタンの地下鉄は、赤ちゃんの顔で埋め尽くされた。
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「もっと背の高い赤ちゃんを!」
「もっと頭のいい赤ちゃんを!」
「あなたの最高の赤ちゃんを!」
これらは、新進気鋭のスタートアップ企業、ニュークリアス・ジェノミクス(Nucleus Genomics)社(以下、NG社)が仕掛けた、史上最大の遺伝子最適化キャンペーン広告だ。・・・
NG社が提供するのは、人工授精した胚の遺伝子結果を分析し、そこから生まれる赤ちゃんの身長や体重などの身体形状と認知能力、精神疾患も含めた病気リスク約2000種類を数値に変えて、胚をランク付けするサービスだ。
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賢くて背の高い赤ちゃんを選ぶのにかかる費用は8999ドルだ。
批評家や一部マスコミから、「ナチスの優生学再来」「正確性に疑問」などの批判が出る一方で、・・・擁護する声もある。
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2025年10月末。
遺伝子編集学者のルーカス・ハリントン博士は、健康に有害な遺伝子を修正したり、有益な遺伝子を外から入れることで胚のDNAをつくり変えて病気を回避する、新しい予防医療の公益法人プリベンティブ社を、3000万ドルの資金で立ち上げた。
ハリントン博士によると、この技術の安全性が認められて実用化された場合、胚の編集費用は5000ドルほどになるという。
人を救う「新しい予防医療」と言われたら、誰が反対できるだろう?
いくらタブーと言われても、需要が見込める以上、この分野に挑む企業は、次々に立ち上がる。
P32
シリコンバレーで起業するコリンズ夫妻は、知能が高い人々の子供を増やすことが、人類の文明を救う方法「プロナタリズム(出生主義)」だと信じている。
妻のシモーヌはこの考えに沿って、28歳の時に体外受精を実行、その段階で遺伝子検査をし、複数の受精卵の中から、将来の「推定IQ」が最も高く、精神疾患や肥満や心臓病などの病気リスクが最も低い数値を出した「Aランク」の受精卵を確保した。
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だが、この受精卵がすぐに使われることはなかった。
夫妻にとって、20代から30代半ばまでの10年間は、自分たちの事業を軌道に乗せ、シリコンバレーでの安定した地位と潤沢な資産を形成する重要期間だからだ。
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シモーヌは、36歳で事業を成功させ十分な経済力を手に入れると、凍結していたAランク受精卵を解凍し移植、1回の出産を効率化するために、意図的に複数の受精卵を移植して、37歳で双子(男児と女児)を産んだ。
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コリンズ夫妻の双子の毎日は、まるでスタートアップ企業のプロジェクトさながら体調や食事のスケジュール、教育の進捗などを、すべてアプリで管理されている。幼い頃からの、AIを用いたタブレット教育は、彼らが既存の学校教育を全く信頼していないからだ。
「将来、世界の富は一握りの超富裕層に集中し、人間の仕事のほとんどはAIが代わるようになるでしょう。だから子供たちには、その超富裕層に『雇いたい』と思わせるだけの、圧倒的能力を持たせなければ。それが親の務めというものですよ」
彼らにとって子育てとは、将来確実に買い手がつくように最適化し、商品としての価値をできるだけあげるプロジェクトなのだ。
P38
「僕と最愛のルアに、二度目のチャンスが与えられたんです。僕は心から興奮しています」
元アメリカンフットボール(NFL)選手のトム・ブレイディが、飼っているピットブルのミックス犬ジニーが、実は2年前に亡くなった愛犬ルアのクローンであることを公表したのは、2025年11月のことだ。
日本円で700万円ほど払えばペットの犬や猫を復活させてくれるサービスを提供したのは、クローン作製大手ビアジェン社。多くのハリウッドセレブやトムのような有名スポーツ選手といった、裕福な顧客に支えられている。
この話をCBSニュースが取り上げると、SNSにはさまざまなコメントが溢れた。
<命は神がつくったもの。人間が複製するのは間違っている>
<たったの5万ドルか。愛犬を連れ戻すためなら、そのくらいは出してもいい>・・・
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ビアジェン社が提供する「絆の継続サービス」を、愛犬のクローンを予約した友人は「愛の救済」と呼んでいた。
だが本当にそうだろうか。
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「痛み」を通じてしか触れることのできない、命への畏怖と尊厳は、一体どこにゆくのだろう。
P66
スタンフォード大学の神経学者トニー・ウィス=コーレイ博士が発見した血漿カクテルの実験は、ネズミだけでなくヒトのアルツハイマー症状も改善した。
ドイツのベイルスドルフAG社の研究でも、若い血液の輸血による認知症防止効果が注目されている。若い血液に含まれる特定のタンパク質が、老化した臓器や脳の機能を「リセット」し、認知機能を向上させることは、科学的に無視できない段階に入りつつあるのだ。
いくら当局が警鐘を鳴らしても、1回8000ドル払える財力があれば、我こそはと試したがる富裕層は、後を絶たない。
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血液という「生体情報そのもの」を入れ替えるという発想は、エンジニア的思考を持つシリコンバレーの住人たちを強力に惹きつけた。どうせなら親と子と孫でいっぺんにやってしまえ、と3世代同時輸血(血漿)を実行する者まで現れた。
その男の名は、ブライアン・ジョンソン。
今や不老長寿業界で最も有名な、自らを実験台にし続ける大富豪だ。
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専属医師30人の管理下で、ブライアンは自分の身体で実験したすべての不老手法の内容と、毎日測る82ヵ所の内臓データを、複数のSNSを通して全世界に公開している。
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現時点(2026年5月)で、48歳のブライアンの肉体年齢はマイナス5歳、心臓機能は39歳で、白髪は8割消滅。SNSには、毎日、好奇心や憧れ、アンチコメントが大量に書き込まれる。
P122
今や手足が麻痺しても、脳の電気信号を読み取らせ、ロボットの腕を動かせる時代になった。けれど所詮は義手、やっぱり生身にはかなわないだろう、とあなたは笑うかもしれない。
ところが今度はアメリカの科学者が、2人の人間の脳を繋ぐことで、他人の腕を自分の意思で動かすことに成功した。
2025年9月22日。
ニューヨーク郊外にあるファインスタイン医学研究所が発表した論文の中身はこうだ。首から下が麻痺した男性Aの脳に埋め込んだ電極に「コップを摑め」という信号を読み取らせ、向かいに座った健康な男性Bの腕の筋肉に無線で送り、代わりにコップを摑ませる。Bがコップを触ったその感触をセンサーが読み取り、Aの脳内の触覚を感じる部分に送ることで、Aはまるで自分がコップを摑んだように感じるのだ。
上司が優秀な部下に向かって言うセリフ、「僕の片腕になってくれ」が、いよいよリアルな意味を持つ時代になってきた。
開発企業側は言う。
科学の力で他人の五感を共有し体験できるようになることはすばらしいでしょう、と。
人類史上初めて、決してわからなかった「他者の痛み」を、皮膚感覚でわかるようになるのだ。
P183
「精神疾患には、がんのように『末期』という概念はない。回復には時間がかかり、波があるものだからだ。だが国が安楽死を認めれば、患者は『自分はもう治らない、死ぬべき存在だ』という致命的な考えを起こしてしまう。これは治療の放棄であり、国家による切り捨てだ」
オンタリオ州の精神科医ジョン・マーハー博士は、議会の公聴会で、目前に迫る惨劇を食い止めようと声を荒らげた。
2027年3月に予定されている「安楽死法」の精神疾患への解禁によって、精神を病み暗闇の中にいる患者に、国が「死」という名の出口を示すことの残酷さを、誰よりも知っている立場からの批判だった。
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安楽死法の法案作成に関わった一人でありながら、精神疾患への解禁には慎重な精神科医のマデリン・リ博士が投げかける疑問こそ、倫理や人権という枠を超えた、現実的な医学の限界だろう。
「精神疾患特有の『死にたい願望』と、『合理的で自由な意思による死の選択』を、どうやって科学的に区別するのですか?その基準は現実には存在しないのに」
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マーハー博士が守ろうとしたのは、人間の心の不確かさと、そこから立ち上がる生命の力だが、効率を至上命令とするデジタル管理社会にとっては、その「揺らぎ」こそが、最も排除すべき障害物なのだ。
だが、カナダ国民が、実はこの排除の基準が心身の「病気」だけではなかったことを知ったのは、2022年に放映された、ある一本のテレビ番組だった。
「私は死にたいわけじゃない。ホームレスになるのが怖いだけなんだ」
54歳のアミール・ファルスードは、安楽死を申請した理由を聞かれ、カメラに向かって震える声でこう答えた。
何年も前に背中に怪我をしたせいで、アミールは毎晩痛みで眠れず、苦しみながら暮らしていた。
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年々物価が上がり、国が社会保障をカットし続ける中、住んでいたシェアハウスが売りに出され、新しい部屋を借りようにも障害者年金だけでは払えない。
頼れる家族もいない上に、生きたくても国は助けてくれず、ついに路上生活(ホームレス)が確実になった時、アミールはMAiDの申請を出したのだ。
カナダの法律では、安楽死が認められるためには2人の独立した医師が評価し、判断を下さなければならない。患者の苦痛が「医学的」なものか、それとも「社会的・経済的」なものかを見極める必要があるからだ。
「安楽死を望むのは病気ではなく家を失うのが怖いからだ」と伝えられていたにもかかわらず、主治医も二人目の医師も、慢性的な背中の痛みを理由に「医学的基準を満たしている」としてアミールの申請を承認する。
審査を通過した感想をテレビのインタビューで聞かれたアミールは、「死ぬ権利が認められたのはありがたい」と答えたものの、「死ぬのは怖いですか?」と聞かれると、一瞬言葉に詰まった後、目に涙を浮かべてこう言った。
「……はい」
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・・・カナダのこの事例をきっかけに、自分を社会的な「お荷物」と感じる高齢者が、死を選ばされる心理的圧力を受けていることが再び問題視されてゆく。
また、番組を見てアミールに同情した視聴者たちがクラウドファンディングを立ち上げたところ、世界中から6万カナダドル(約650万円)以上の寄付が集まり、当面の家賃を確保できたアミールは、すぐに「安楽死制度」の申請を撤回した。
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・・・アミールは、その後のインタビューで、感謝の言葉の後にこう訴えた。
「僕は運が良かったけれど、見えないところで僕のように苦しんでいる人が山ほどいることの方に、注意を向けてほしい」
P218
叔母の死から始まったこの旅は、気づけば何年もかかる長い問いの旅になっていた。シリコンバレーの富裕層が億を投じて老いと死に抗う一方で、貧しさゆえに安楽死を申請する男性がいる。遺伝子で選別される命がある一方で、どんな状態でも「生きているだけでいい」と愛され続ける人がいる。
その落差の大きさに、何度も言葉を失った。
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この本は、答えを出すためでなく、問いを一緒に持ち続けるために書きました。
問い続けることが、私たちを血の通った人間にし、「揺らぎ」が慈しみの源になるからです。・・・
