いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経 つづき

いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経 (朝日文庫)

 般若心経がこんなふうになるとは・・・

 

P19

般若心経

 ・・・

薄暮。川のほとり。階段ができている。三十~四十人の聴衆のいる場。川の向うで、ブッダがめいそう中。階段の上に立って話をしているのは、かんのん。修行者であり、ぼろぼろの糞掃衣を着ている。目を輝かせて生気に溢れ、身体をいつも動かさずにはいられないような話し方、やや早口。三十歳~五十歳。女でも男でもtransgenderでも。階段の一段下がったところにいて、かんのんを見上げているのは、しゃーりぷとら。修行者であり、男であり、ぼろぼろの糞掃衣を着ている。かんのんよりは年上。禿が好ましい。かんのんが、聴衆のほうを見て、立ちあがって口を開く)

わたしは共感する者であります。

人の苦がありありと目に見えるんです。

共感しながら、人々を向こう岸へ渡したいと思っています。

今日は、わたしの発見したことを話します。(かんのんはちらりとブッダのほうを見る。ブッダ、めいそう中にて反応なし)

わたしという存在が。

色(あ)る。

色ることを受(うけとめ)る。

それについて想う。

わかろうと行(す)る。

識(わか)る。

これが「わたし」という存在をつくるプロセスだということ。

そしてさらにわかったんです。

そのいちいちのプロセスは「空っぽ」だということ。

そう考えたら、たちまち、

苦だらけの日々からスッキリと苦が抜けました。

(しゃーりぷとらは怒ったような顔をしてかんのんをみつめる)

聞いて、しゃーりぷとら。

「色る」と「色るが空(な)い」はちがわない。

「色るが空い」と「色る」はちがわない。

「色る」は「空い」で

「空い」は「色る」だ。

そしたら、色る・受る・想う・わかろうと行る・識るについても、ひとつ、ひとつ、同じように考えてみる。

(しゃーりぷとら、首をあしげて立ち去りかける。かんのんは挑発するようにつづける)

しゃーりぷとら、ここから見れば。

存在するものはすべて「空い」のだ。

生(うまれ)て不(な)い。

滅(しん)で不い。

垢(きたな)く不い。

淨(きよ)く不い。

増(ふえ)て不い。

滅(へっ)て不い。

(しゃーりぷとらはぷんぷん怒る。そんなわけあるかいと言わんばかり)

つまりこうだ、「空い」と考えれば、そこには、

「色る」も無ければ。

「受る」も無い。

「想う」も無い。

「わかろうと行る」も無い。

「識る」も無い。

そしたら、こうも言える。(かんのんの身体が揺らぎはじめる)

「目」も無い。

「耳」も無い。

「鼻」も無い。

「舌」も無い。

「皮膚」も無い。

「心」も無い。

そしたら、こんなことも言える。(かんのんは踊りはじめる)

「目でみるもの」も無い。

「耳できくもの」も無い。

「鼻でかぐもの」も無い。

「舌であじわうもの」も無い。

「皮膚でさわるもの」も無い。

「心でおもうもの」も無い。

人が生きる。(かんのんは力をこめて)

「みる」から「かんがえる」まで

いろいろのプロセスがつながっていく。それを生きる。

それがいちいち苦につながる。でも。

「目でみる」は無いのだった。

「目でみる」は無い、も無いのだった。

それからつながるプロセスもいちいち無いのだし、

「心でおもう」も無いのだった。

「心でおもう」は無い、も無いのだった。

人が生きる。(かんのんは力をこめて)

「何も知らない」から「老いて死ぬ」まで

いろいろのプロセスがつながっていく。それを生きる。

それがいちいち苦をうみだす。でも。

「何も知らない」は無いのだった。

「何も知らない」は無い、も無いのだった。

それからつながるプロセスもいちいち無いのだし、

「老いる死ぬる」も無いのだった。

「老いる死ぬる」は無い、も無いのだった。

(しゃーりぷとらは頭をかしげて聴き入る)

ああ、苦しい。

苦しみの原因があるからこんなに苦しいのだ。

でもそれは無くせる。

そのために道がある。

(しゃーりぷとら、うなずく)

こんなことを考えてきたが、それも無い。

(しゃーりぷとら、動揺する。かんのんは激しく踊る)

無い。無い。無い。無い。無い。絶叫するしか無い。

(かんのんは足を踏み鳴らす)

ダカラ。

修行者はみなコレを知る。それで、

心をさえぎるものが無くなる。

さえぎるものが無くなるから、恐怖も無くなる。

うろたえて蹴つまづいてひっくり返って思いなやむなんてことも無くなる、

心がひろびろと解き放たれる。

過去も、現在も、未来も、

向こう岸に渡った人たちはみなコレを知っていたし、

知っているし、

これからも知るだろう。

(かんのんはふたたび足を踏み鳴らす)

ダカラ。

知れ、さあ知れ、いま知れ。

知らずにおれるか。

(かんのんはうずくまり、小声でささやく)

ああ、すごいことばだ。

光にみちて。

あんなに高いところにあって。

ならぶものなんてどこにもなくて。

口に出してとなえれば、

どんな苦も抜ける。

ほんとうだ、これだけは、空いじゃ不い。

(かんのんはゆっくりしずかに足を踏み鳴らす)

ダカラ。

しゃーりぷとら、そしておあつまりのみなさん。

わたしはつたえます、このことば。

完成にゆきつくための真のことば。

(かんのんは充分な間をとって、ことばを呼び寄せる)

ぎゃーてい。

ぎゃーてい。

はーらーぎゃーてい。

はらそうぎゃーてい。

ぼーじーそわか。

(かんのんがにっこりと笑う。しゃーりぷとらも人々もことばから解放される。我に返る)

般若心経でした。

 ・・・

 玄奘は、アヴァローキテーシュヴァラを、観自在菩薩(自由自在に見るボサツ)と呼び、鳩摩羅什は、観世音菩薩(世の音を見るボサツ)と呼びました。

 自在に見る?世の音を見る?

 それってどういうこと?

 曹洞宗の藤田一照師に、いつかその意味をたずねてみました。一照師が、うむ、とちょっと考えて、笑っているようなまじめな表情で(一照師はいつもそうなのですが)答えてくれました。

「人々の苦を、共感する存在」