印象に残った、大切だなと思ったエピソードです。
P213
とある朝のこと。
「お婆さんがほぼ、一睡もされていません。なので、今日のお昼は眠たくなるかもしれません」
ある職員があっさりと申し送った。お婆さんの睡眠状況はよく分かった。ぼくにはまだ聞きたいことがある。顔色も変えず、眠れていないお婆さんを心配してみせる彼のことが心配になってしまう。
「よく食べました」
「あまり飲めていません」
「午前2時ごろ大便が出ました」
「朝の4時に目覚めて、居間のソファーで二度寝されました」
「排尿量が少なめです。水分の摂取に気をつけてください」
生理の状況を申し送ることはとても大切なことだ。だけど、それだけの申し送りはどこか物足りない。
「一睡もしていないって、ず~っと起きていたの?お婆さんは……」と尋ねてみる。
「いえ、寝てもらおうと思って、お布団に入ってもらうのですが、数分だったり、30分おきだったり、布団から這い出してこられました。お腹が空いているのかなぁと思って、おにぎりをつくったりしたけど、眠れませんでした」
やはり、眠れるようにアプローチしている。しかしながら成果はなかったようだ。
「何回ぐらい這い出してこられたの?」
「そうですね、8回はゆうに超えていると思います。よく憶えていません」
お年寄りがよく眠ることはささやかな願いである。それは「当事者にとって」ということもあるのだが、「夜勤者にとって」という意味いも含まれている。
やおら、朝を迎えたかのように活動を始め、大きな声で歌い出したり、他のお部屋に入ろうとするお年寄りが一人いると、心中、穏やかではなくなる。
眠らないお年寄りに触発され、ひとり、ふたりと、起き出されては、あっというまに対応に行きづまる。ゆとりを失う自分の姿が目に浮かぶからだ。
彼もまた、同じ心境にあったはずと推察した。そこにある焦りや不安、動揺や苛立ちといった心の動きに対して、どのように対応したのだろうか。
「へえ~、8回以上も起きてきたって、大変だったね。それで、君は何回目で叩きたくなった?」とあえてぼくは聞いてみた。
過激な質問だけど、あくまでも意図的な問いである。彼は感情表現の苦手な人なのか、それとも感情を表に出してはいけないと思い込んでいるのだろうか。探りを入れる。
「そうですね、6回目くらいでしょうか」
彼は真面目に言った。ここは、答えずに笑うところである。
「そうか、ぼくだったら、4回目で叩きたくなるかも」。ひるまずに揺さぶりをかけた。
彼はようやく笑った。他の職員たちもつられて笑う。
・・・
介護従事者には職業倫理上、口に出すわけにはいかない言葉がある。そのような言葉をタブーにしてしまい、成仏させずに闇に葬ることはとても危険だと感じるときがある。「わたし」にはコントロールの効かない情感のあること、理念や倫理では乗り越えることのできない限界が生身の人間にあること、それを共に働く仲間たちと集団的に理解しておきたいと思った。
しかしぼくが本当に知りたいことは、その先にある。
彼はどうやって虐待やネグレクトをしないですんだのか。身体拘束や隔離といった手段もとらず、一睡もしないお婆さんに付き合ったかである。
「ところで、君はどうして、叩くことなくお婆さんに付き合えたの?」
「実は、ちょっと、自分が怖くなるところでした。このままいくとやばい感じがして、お婆さんから逃げたんです」
折にふれて、職員たちに話していることがある。お年寄りの不眠や大声、暴力などに直面し、対応しきれないと感じたときは必ず他の職員に助けを乞うこと。夜勤に限らず、日勤でも同様である。
さらに、応援体制が間に合わず、自分が保てないと感じた場合は「逃げていい」と伝えている。たとえ弾みであったとしても、反射的にお年寄りを押し倒したりする前に逃げてほしいと。生身の限界にある「怖さ」を意識して働いてほしいと。最終手段としての「逃げ」を長の責任において認めている。
「お婆さんが声を上げながら布団から這い出すことにイライラが爆発しそうでした。それで、ハツさんの部屋に逃げ込みました」
ハツさんは97歳のお婆さん。小柄で白髪、普段の穏やかさとは裏腹にヘソを曲げると梃子でも動かない頑固者である。彼はその部屋に逃げ込んだのだった。
「ハツさんの部屋の入り口から、外の様子をうかがっていたら、なんとなく、視線を背中に感じました。振り向くと、ハツさんがじ~っとぼくを見つめていました」
びっくりしただろうなぁ、ハツさん。夜更けに大きな男が入り込み、身を潜めているのだから。
「ハツさんと目が合ったので、ちょっと会釈しました。そうしたら、ハツさんが暗闇のなかでにっこりして、布団の裾をめくり上げながら『入る?』と聞いてきたんですよね。あれで、救われたんです」
眠らずに声を上げ続けるお婆さんを叩かずに済んだのはハツさんのお陰だった。
「あのとき、ハツさんが『入る?』って声を掛けてくれて、気分が変わりました。気を取り直して、戻ることができました」
ハツさんは深いぼけを抱えるお年寄りだ。彼にある、ただならぬ雰囲気を感じとったのだ。その行動はハツさんの抱えたぼけと関係はない。ハツさん本来の人柄で彼に手を差し伸べた。ぼけがあろうとなかろうと、人は人を助ける。彼はそのことに気がついている。ぼくにはそう思えた。
朝の申し送りにある大切なこととは、このようなやりとりを言葉にして、仲間に語ることではなかろうか。それは、体験した「わたし」にしかできない話である。
言葉になった実感は、仲間にある実感とふれ合う。それは、わたし個人の言葉が仲間集団に届く瞬間なのだ。実感を媒介とした申し送りが毎日繰り返されることで、職員の意識は集団化する。
かくして彼は、崩壊しそうな「わたし」を、お年寄りに支えられる形で持ち直したのであった。
・・・
朝の申し送りはひとりの夜勤者が体験した出来事を聞く会だ。それは、個人の腹に溜まりこんだ危うい肉声を集団で成仏させる時間でもあり、ささやかに再生できたことを祝福する場でもある。
再生できなかったときは、集団で嘆き、ねぎらう。そして笑い飛ばす。
長をはじめとする現場のリーダーは、みずから「わたし」の崩壊と再生を言葉にすることで、暗黙の了解化したタブーから現場を解放するお坊さんのようなものだ。
P283
長生きしたいと思うようになりました。
老いて衰えるということを実感したいのです。そこにある悲しみや喜びを深く味わいたいのです。体はどのように変容するのでしょうか。そのとき世界をどう感じるでしょうか。やがて、ぼくは死にます。「わたし」という執着からの解放はどのようなものでしょうか。そして体内のエネルギーを燃やし尽くして死ぬ様子を魂で感じてみたいのです。
火葬はされたくありません。緑の深い山中で埋められたいと考えています。昆虫や微生物に身を委ねて分解されたいのです。ぼくは他者から食われます。体は内臓を介してその体のいのちとなり、大部分はうんこになって土に還ります。
これまで、さんざんお年寄りの排泄に付き合ってきたのですから、うんこになる体験も面白いかもしれません。きっと、天と地、そして生き物たちが、ぼくの死を寿いでくれる。そんな妄想が膨らんでいます。
・・・
近年、介護は職業として人気がありません。大変という印象だけが先走っています。たしかに待遇や賃金、労働環境の改善が必要です。ただ、それだけではなく介護にある深みにふれることができたなら、多くの人がもっと気楽に生きることができると思います。この本が少しでもそれに資することができたなら幸いです。




