食べることと出すこと

食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)

 そんな感覚があるんだ、なるほど言われてみればそうだな、など興味深く読みました。

 

P56

 ・・・私は、舌だけではなく、じつは触感に関しても、うるさい人間になってしまった。

 それには二つの理由がある。

 一つ目は、ずっと後になって手術をしたときのことだが、当然、しばらくお風呂に入れなかった。まず最初に許されるのが、髪を洗うことだ。

 自分ではできないので、看護師さんがやってくれる。理髪店方式で、頭を下げて前に突き出し、看護師さんがシャンプーをして、後ろ頭からお湯をかけてくれる。

 ただそれだけのことなのだが、これがとても感動的なのだ。頭を洗って、これほど感動するとは思わなかった。

 看護師さんが、「不思議とみんな、感動するのよね~」と言っていたから、私だけではない。

 頭を流れて行く、水の流れのひと筋ひと筋を感じるのだ。・・・悶絶するような快感ではなく、何か浄化されるような快感。

 意識が極度に、水の肌ざわりに向けられるからではないかと思う。

 この体験をして以来、私はシャワーを浴びるときなどに、少し意識しさえすれば、全身で水の流れを感じて、感動することができる。

 

P88

 フランツ・カフカは菜食で、小食で、間食もせず、アルコール類や刺激物もなるべくとらないという、極端な食事制限をしていた。

 健康のためにそうしていたのだが、病気だったわけではなく、むしろ極端な摂生のせいで弱っていった。

 だが、そういうカフカが、いつもよりよく食べるときがあった。

 それは、父親から遠く離れたときだった。

 たくましくて、大きく、なんでも食べて、ビールをあおる父親。そういう父親のそばでは、カフカはほんの少ししか食べない。しかし、遠く離れると、よく食べるようになる。

 生まれ育ったプラハから離れたときにも、いつもより食べるようになる。

 ・・・

 婚約解消をしたときにも、その足ですぐに肉を食べに行っている。

 菜食のカフカにとって、肉を食べるというのは大変なことだ。婚約中は、決して食べなかった。

 そして、ついに本当に病気になって、ずっと辞めたいと思っていた仕事を辞められそうな見通しになって、大好きな田舎に療養に行ったときにも、いつもより多く食べて、むしろ太っている。

 あきらかに、現実に対する拒絶が、食べないことと結びついていて、拒絶する気持ちがやわらいだときには、より食べられるようになっている。

 

P103

 相手が出した食べ物を、食べないということは、相手を拒否するということだ。

 ・・・

 手にのせた食べ物を、動物が食べてくれたとき、人はそこに信頼を感じる。

 ・・・

 だから、食べない相手に対して、人はいら立ちや怒りを感じる。

 ・・・

 緊張や遠慮で食べないのは問題ない。しかし、いつまでも食べないのでは、許せなくなってくる。

 ここが怖いところである。

 その怖さを見事に描いているエッセイがある。

 山田太一の『車中のバナナ』というタイトルのエッセイだ。

 ・・・

 山田太一が伊豆に用事で出かけ、鈍行で帰ってくる途中の出来事が書かれている。

 電車の四人がけの席で、気の好さそうな中年男性がみんなに話しかけ、わきあいあいと会話が始まる。

 その男性が、バナナをカバンから取り出すのである。

 

 娘さんも老人も受けとったが、私は断った。「遠慮することないじゃないの」という。

「遠慮じゃない。欲しくないから」

 

「あっ、そうなの」と言って、中年男性がバナナをカバンにしまえば、何事も起きない。

 しかし、こういう場合、たいていそうはならない。

 では、どうなるかというと、こうなる。

 

「まあ、ここへおくから、お食べなさいって」と窓際へ一本バナナを置いた。

 それからが大変である。食べはじめた老人に「おいしいでしょう?」という。「ええ」。娘さんにもいう。「ええ」「ほら、おいしいんだから、あんたも食べなさいって」と妙にしつこいのだ。暫く雑談をしている。老人も娘さんも食べ終る。「どうして食べないのかなあ」とまた私にいう。

 老人が私を非難しはじめる。「いただきなさいよ。旅は道連れというじゃないの。せっかくなごやかに話していたのに、あんたいけないよ」という。

 

 このくだりを読んだとき、私は本当に感激した。

 ああ、これだと思った。こういう目に何度も何度もあってきたのだ。それがじつに見事にとらえられている。

 ・・・

 山田太一は、バナナを食べなかった理由をこう書いている。

 

 貰って食べた人を非難する気はないが、忽ち「なごやかになれる」人々がなんだか怖いのである。

 ・・・

 ・・・バナナがあまり好きではなくても、お腹がいっぱいでも、多少は無理をしてでも受け取る人が少なくないと思う。

 しかし、そうしたくない人もいる。

 さらに、したくてもできない人もいる。

 ・・・

 山田太一は「次第に窓際のバナナが踏み絵のようになって来る」と書いている。中年男性のことを受け入れるかどうか、このなごやかな場を受け入れるかどうか、という踏み絵になってくるのだ。

 このように、食べ物は簡単に、ただの食べ物ではなくなる。だからこそ、山田太一はバナナを受け取らなかったのだ。そして、実際、その通りのことが起きたのだ。

 ・・・

 山田太一はハッキリ書いている。

 

 つまり、たちまち「なごやかになれる人」は「なごやかになれない人」を非難し排除しがちだから怖いといったのだった。

 

 よくぞ書いてくれたと、胸のすく思いだった。

 ねんのため付け加えておくと、前に紹介したように、山田太一は子どもの頃に戦争で食糧難を体験している。

 映画の中で、貧しい一家が食事のときにじゃがいもの皮をむいて食べていたというだけで、「なぜ皮をむくのか、なぜ残したのか、と無念でならない」と、その映画を否定するほどの人だ。

 栄養失調に苦しみ、口に入るものはなんでも食べた過去が忘れられず、今でも出されたものを残せないという人だ。

 バナナを粗末にできる人ではないのだ。

 それでも、このバナナは食べないのだ。

 

P124

 食べないことを許す人は、本当に少ない。

 その中で強く印象に残っているのは、宮古島の知人と初めていっしょに食事をしたときのことだ。

 私が宮古島に行ったときに、その人がたくさんのご馳走を目の前に並べてくれた。そして、「さあ、どんどん食べてくださいね」と。

 ・・・

 ほとんど食べずにいたので、これはそろそろ圧力がかかり始めるだろうと思ったら、いつまでたってもかからない。

「さあ、遠慮しないで食べてくださいね」とさえ言われない。相手は普通に食べて、普通に話を続ける。険悪な雰囲気になることはまったくなく、楽しく会話が続いていく。

 ついに最後までそのままだった。

 こちらが食べないことを変に思っただろうし、食べ物も残ってしまった。

 でも、そのことにはまったくふれず、「またいっしょに食事しましょうね」と言って、実際、その後も何度も誘われていっしょに食事をし、今も親しい。

 これは本当に稀有な例である。

 後で知ったことだが、この人も難病だった。といっても、私の病気とはちがって、食べることには何の支障もない病気。だから、どんどんお酒も飲むし、なんでも食べる。食べられない苦しみについては、知らないだろう。

 しかし、別の苦しみを知っている。そのせいで、何かの輪に入っていけないことがあったのかもしれない。どこかで排除される経験があったのかもしれない。

 そういう経験をした人は、他人にもやさしくなれる場合がある。相手の行動を不愉快に思ったときにも、「この人には何か、事情や理由があるかもしれない」ということを考える。そして、同じ色に染まらないからといって排除しない。

 

P263

 そもそも性格というのは、かなり身体によってできているのではないだろうか?

 病気によって身体が変化することで性格が変わるのも、そもそも性格が身体によってできているからこそだろう。

 心のほうが身体をコントロールしていると思われがちだが、むしろ身体のほうが心をコントロールしているように思われる。

 ・・・

 ベートーヴェンというと、こわい顔をして、人を寄せつけないイメージがある。

 それどころか、何か精神的な疾患があったんじゃないかという説まである。

 というのも、潔癖症でよく手を洗っていた一方で、「汚れた熊」というあだ名がつくほど服装に無頓着で、ホームレスと間違われて逮捕されたことさえあるからだ。

 しかし、ベートーヴェンの「身体」のことを考えると、これらのことはすべて納得がいく。

 ベートーヴェンは、小さい頃から身体が弱く病気がちだった。目の病気、天然痘、肺の病気、リュウマチ、黄疸、結膜炎、他にもいろいろな身体の不調で悩んでいる。

 そして、慢性的な腹痛や下痢があり、胃の調子がよくなかった。

 病気がちで胃腸が弱い人というのは、私もそうだが、口から入ってくるものに、非常に気をつける。だから、手をよく洗うし、潔癖症になる。

 そしてベートーヴェンは二十代の後半から難聴になる。そのために、人づきあいが難しくなった。

 孤独な生活を送っていれば、服装に無頓着になるのは当然だろう。・・・

 ベートーヴェンに初めて会って、あまりひどい格好なので、ロビンソン・クルーソーかと思った人がいたらしい。でも、彼はまさに無人島にいるような生活を送っていたのだから、それも当然だ。

 相手のことを詳しく知れば、異常に見えたことにも納得がいき、変な人に思えたのが、そうではないことがわかったりする。

 もちろん、ひとりひとりのことを、そんなに詳しく知ることはできない。

 でも、だからこそ、「何か事情があるのかもしれない」「本当はそういう人ではないかもしれない」という保留付きで、人を見たいものだと思う。

 そのわずかなためらいがあるだけでも、大変なちがいなのだ。

見えない世界で見えてきたこと

見えない世界で見えてきたこと

 こんなことも起こるんだ・・・と驚き、またその後の著者自身の気づきや行動などにも驚きつつ読みました。

 

P4

 2016年4月15日の金曜日、僕は仕事の打ち合わせのため、有楽町駅前にある椿屋珈琲で待ち合わせをしていた。お相手は占い師で、当時の僕は、ファッション誌やウェブサイト、そしてテレビに掲載される占い原稿を制作する会社の仕事をしていた。・・・世の中にはいろいろな仕事があるもんだなと、今まさにあなたが思ったであろうことを、この仕事を始めた当初の僕も思っていた。

 メイド服のようなかっこうをした店員がメニューを運んできてくれた。ページをめくると、何か違和感を覚えた。書かれているメニューのところどころ、文字が消えているのだ。・・・

 ・・・

 しばらく後に帰宅した妻に目のことを話すと「とりあえず明日、病院に行ってきたら?」とアドバイスをくれた。・・・

 ・・・

 ようやく自分の名前が呼ばれ診察室に入ると、・・・ひととおりの検査を終えると彼は「疲れ目でしょう、点眼薬を出しておきます」と言った。

 ・・・

 翌日の朝、目を開けると、夢の中のような光景が目に飛び込んできた。視界のすべてがにじんでぼやけ、何ひとつはっきりと見えない。・・・

 僕がそのときにあげた叫び声のなかには、どんな感情が入り混じっていたのだろう。混乱、恐怖、絶望、あるいはそのすべてだったのか。とにかく大声で泣き叫びながら、すでに起きて朝食の準備をしていた妻の名前を呼んだ。

 

P55

 その人はいつもと変わらない、やぁやぁという感じでやってきた。まるでカフェでの待ち合わせ、僕が先にテーブルに着いているところに10分くらい遅れてやってきたような、そんな空気をまとっていた。しかしここは病院。僕がいるのはベッドの上だ。彼は僕の顔を見るなり「おぉ、石井くん、意外と元気そうじゃん」と言った。手に持っていた荷物をテーブルの上に置き、いすに腰かけひと息ついてから、続けざまに流れるように「いやぁ、かわいそうだねぇ」と口にした。

「かわいそう」という言葉を、誰かに面と向かって言うのはなかなかに難しいし、それを言う機会もあまりない。走っていた小さな子供が不意に転んでしまい、大きな声で泣いている。そこへ駆けつけ背中でもさすりながら「かわいそうに」と言うことはあるだろうが、三度目の大学受験に失敗してしまった友人や、将来家族になるつもりでいた彼女にふた股をかけられ振られてしまった友人に「かわいそうだね」と声をかけることには、やっぱり二の足を踏んでしまう。よしんばかけたところで、おまえに何がわかると手を振り払われ、二の句を継げなくなるのが関の山だろう。

 そもそも「かわいそう」というのはあわれみを表す言葉で、あわれみとは、同情したり不憫に思ったりする気持ちだ。調べてみると、愛おしく思う気持ちや慈愛の意味もあるらしいが、あまりその文脈で使ったことも使われた記憶もない。これまで自分が誰かに対して使ってきた、そして誰かから使われてきた「かわいそう」は、どこか安全な場所から対象者と距離をとり、少し上のほうからかける言葉か、もしくは、かなり上のほうからさげすみの意味をもってかけられる、冷ややかな言葉という印象が強い。

 彼はさらに続ける。「だってさ、昨日まで見えていたのに急に見えなくなったんだよ。しかも子供が生まれたばっかりでさ。自分が同じ状況だったら、自分のこと、かわいそうだと思うもん」。ふだんと変わらない、少し早口ながらも少しのブレもないまっすぐな言葉が、声に乗って僕の目の前に運ばれてきた。

 そうなのだ、僕はかわいそうなのだ。光を失ってから、自分ではずっとそう思っていた。しかし誰もその思いには共感してくれなかった。いや、共感はしてくれていたとして、きっと言葉にはできなかったのだろう。・・・

 今、目の前にいるこの人は「あれ、髪型変えた?」くらいのフラットさで、僕がいちばん欲していた言葉をかけてくれた。前からでも上からでもなく、横に来て軽く肩をポンと叩く感じで、共感的に存在してくれている。

 僕は足元から視線を上げ、ちょっとだけ前を向くことができた。一寸先は闇のままだったけれど、その闇の中から「それでいい」と肯定してくれる存在を感じる。その人が前にいるならば、僕はその人のほうを向くことができるだろう。

 彼は名を康さんといい、僕よりも6つ年上で、鍼灸師をしながら東洋医学の探究をしている人だ。・・・

 ・・・

「でもさ、かわいそうだからここに来ているわけじゃないんだよ。自分のやってきた東洋医学が、今の石井くんにとってどんなふうに影響するのかを知りたいんだよ。まぁ、臨床というか人体実験だね」。その言葉どおり、看護師の目を盗んで鍼の施術が始まると、施術は対話の時間にもなっていった。

「目が見えていたって、お先真っ暗なヤツなんていっぱいいるでしょ。逆に石井くんは目が見えなくなって、自分が生きる道がはっきりと見えてくるかもしれない。石井くんがどうありたいのか、どうやってこの先の生命を輝かせていきたいのか、それをゆっくり考えたらいいんじゃない」と、すぐには答えが見つけられなそうな問いを、康さんは僕に投げかけた。

 こうしたほうがいいとか、ああしたほうがいいとか、泣くなとか、頑張れとか、神さまがどうのこうのなんて言葉ではなく、ただ僕に問い、これからの僕が楽しみだと言ってくれている。多忙ななか、片道1時間はかかる病院まで、毎週のように見舞いに来てくれる康さんとの対話の時間が、入院中の僕のひとつの大きな拠りどころになっていった。

 

P82

 37歳の誕生日を翌週に控えた水曜日の朝、いつもどおり教授ご一行がやってきた。研修医が僕の名前を読み上げ、教授に報告を始めた。

「石井健介さん、視神経炎のため入院。検査の結果、多発性硬化症と診断、これ以上の治療を続けても回復は見込まれないため、来週退院予定です」

 えっと……僕は今、何を耳に入れられたのだ?水かミミズか、この際どっちだっていい。どちらにせよ、寝耳に何かを入れてくるヤツはサイコパスだ。無配慮に告げられた病名と退院の事実、しかも僕に向かって直接伝えられたのではなく、研修医が教授に報告するのを蚊帳の外、いや暗幕の外で聞かされたような感じで、暗い視界が真っ白になっていく。呆然とする僕を尻目に主治医である教授は「石井さん、来週の誕生日は家でご家族と過ごせますね、よかったですね」と、いつものようにニコニコしながら言った。笑みを浮かべながら人をまたあの荒れた海へと突き落とすなんて、最高にサイコパスなヤツだ。

 僕はどこかで、目が見えるようになって退院するものだと信じていた。またあの日常に戻れるのだと信じていた。それが、この非日常が日常になるのかと想像すると、体の震えが止まらなくなった。・・・ 

 ・・・

 妻は「やっぱりそうですか」という感じで主治医の話を聞いていた。どうやら彼女なりに調べ、あたりをつけていたらしい。僕はといえば、発症した原因もわからないまま、治療方法の確立されていない難病をこの身に宿してしまった事実を、すぐには受け止めきれずにいた。それは「目が見えない」ということとはまた違う、別のレイヤーにある出来事だった。

 

P89

 JUST DO IT.

 NIKEが掲げるコピーはシンプルで力強い。・・・

 僕もそれにならうことにした。習うより慣れろ、とにかく手当たり次第、手探りでやってみるしかないのだ。

 手始めに手をつけたのは、手慣れているホットコーヒーを淹れることだった。・・・

 次に手をつけたのは、洗濯物をたたむことだった。・・・

 それから今度は、家の中の日当たりのよい場所を占拠している、多種多様な多肉植物たちの植え替え作業に手をつけた。・・・

 ・・・

 あれもできない、これもできない。そこから、あれもできる、これもできる。さらにそこから、あれもやりたい、これもやりたい。そんなことを増やしていく。今までいちいち絶望して泣いていた男は、いちいち喜び、うれし泣きする男になった。そして「ねぇねぇ、これもできるようになったんだよ」と、いちいち報告してくるその男は、いちいち絶望して泣いていた男と同じくらいには面倒くさかっただろう。

 こうして、泣いたり笑ったり喜んだり悲しんだり。そのとき自分の内側からあふれ出てくる感情をそのまま純粋に表現する子供のように、僕は日々を過ごしていった。

 

P104

 視界は、あっちとこっち、自分と他者とを明確に分けるが、視力があやふやになると、その境界線もぼんやりとにじみ、あやふやになってくる。

 庭で植物の手入れをしていたときのこと。ぽつりとひと粒の雨が肌に触れる。ふた呼吸もする前に、地面とまわりの空間から、パチパチとソーダの泡が弾けるような音が聞こえてきた。雨の中にいるというよりも、水の中にいる錯覚、そして次の瞬間「この雨は僕自身だ」と思った。思ったというよりは、悟ったといってもいいかもしれない。

 雨は植物に命を与え、僕は酸素や野菜、果実をそこから享受する。もちろん、直接的に飲み水としても摂取をするが、どちらにせよ、それらは僕の体内に入った瞬間、僕の一部となり溶けていく。考えてみれば当たり前のことなのだが、その当たり前を、今まではいちいち考えることなく、無意識に生きてきたことに気がついた。

 ・・・

 視力の大半を失ったことで、かつては見えていた境界線が見えなくなり、目には見えないつながりが、ぼんやりとながら見えるようになってきた。

 自分は個であり全体。宇宙の一部であり、宇宙もまた自分の一部である。まるで大海の中の1滴の水のような存在なのだ、そんなだいそれたことをぼんやりと感じ考えながら、今日も僕は砂浜の上に座っていた。

 

P118

 会社を退職し、人生で初めて失業保険を受け取った。加えて障害年金を受給している僕は、何もしなくても月にある程度のお金を得ることができる。・・・

 ならばと、僕は以前からずっと試してみたかった「誰かのために自分を無償で差し出すと何が起こるのか?」という、小さな社会実験をすることにした。利他的になることで自分のなかに新しい発見があるのでは?という利己的な思いと、幸せのピタゴラ装置のスイッチを入れたらどんな景色が見えるのだろう?という純粋な好奇心。・・・

 僕が無償で提供できるのは「Calm Session(カーム セッション)」というセラピーセッション・・・

 ・・・

 すると康さんがこの取り組みに賛同し、渋谷にある治療院があいているときは自由に使っていいよ、と申し出てくれた。セッションを通して誰かの役に立つことは、入院中に康さんから受け取った「これからどう生命を輝かせていくのか?」という問いに対するひとつの答えでもあるし、受け取った恩を次の誰かに渡す、恩送りの意味もある。

 

 Joy enlighten your body,and mind.

 

 いつかの夢の中、姿は見えない大いなる存在の声が、くり返し空に響いていた。直訳すれば「喜びはあなたの体と精神を啓発する」といったところだが、僕は「光をもたらす」と意訳をし、そのメッセージを受け止めた。

 やがてこの小さな社会実験を経てみると、僕の内側にはとてもシンプルな言葉が残った。それは「うれしい、楽しい、大好き」という3つの言葉で、ある程度の世代のかたならメロディ付きで思い浮かべるであろうその言葉を、僕は音叉のように携えることにした。

 この音叉に共鳴・共振する人とだけ仕事をする。僕は純粋意欲でのみ動き、それによって、誰かの「うれしい、楽しい、大好き」という感情が生まれることだけをする。「黄金や宝石より大事なものがある」と、夢の国のシンドバッドも歌っているではないか。もちろんお金は大切だけれど、自分が自分の価値観を大切にし、価値あるものごとを続けていれば、おのずとそこに対価は生まれるだろう。自分の尊厳を削られ搾取され、誰かの承認欲求や偽りのために生きるのではない。それらのいっさいとは、喜びをもって決別しよう。

 

あなたの幸福度が上がる デンマークの仕事と生活

あなたの幸福度が上がるデンマークの仕事と生活

「成立させたいという回答が最も多かった法律案ベスト3は、ユニバーサル・ヘルスケア(国民皆保険制度)、週4日労働、ユニバーサル・ベーシックインカムの3つだ」ほんとうに、早くそうなって欲しいと思います。

 

P8

 ・・・人生にはすばらしいことがたくさんある。休暇に出かけるのも、友だちと遊ぶのも、ごちそうを食べるのも、そのすべてがすばらしい。でも、自分のメンタルヘルス(心の健康)によくない仕事を辞めた経験のある人は、どれくらいいるだろう?

 まだ辞めていないという人には、この本が何かのきっかけになればと願っている。・・・どうすれば自分が生き生きと活躍できる仕事や職場を作り上げることができるかが本書のテーマなのだ。

 

P10

「arbejdsglæde」は北欧系の諸言語、つまりデンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、アイスランド語にあるが、世界のほかの言語には、私が知る限り、これに相当する単語はない。探した中でいちばん近いのはエストニア語の「töörõõm」(テーローム)で、これは「働く楽しみ」あるいは「ふだんの仕事でちょっとした喜びを見つけること」という意味らしい。

 ・・・

 アーバイツグレーゼは、いい考えというだけではない。その効果はデータをとおしてはっきりと現れているようで、実際デンマーク人は、仕事をめぐる幸福度では常に世界トップクラスに位置している。・・・デンマーク人の58%が、金銭的な理由で―例えば宝くじで1000万英ポンド(日本円で約20億円)を当てて―もう働く必要がなくなっても仕事は続けると回答しているそうだ。

 

P22

 ・・・調査会社ギャラップによると、仕事に精力的に取り組んでいる人は世界中で20パーセントしかおらず、62%パーセントは「静かな退職」をしていて、仕事にやる気がなくなっている。「静かな退職(Quiet quitting)とは、「仕事で求められる最低限のことしかせず、絶対に必要な分以上の時間や労力を注ぎ込まないこと」をいう。残りの18パーセントは「騒がしい退職」つまり仕事への関与を積極的に断つ行動を取っている。

 

P46

 私が初めて「スマイル・ファイル」のアイデアを知ったのは、ルビー・レセプショニスツという会社が2015年に雑誌「フォーチュン」で「アメリカで働きたい中小企業」の第1位に選ばれたときだった。当時この会社はさまざまな取り組みを実践していて、その1つとして、新採用の従業員に「スマイル・ファイル」と名づけたノートを渡し、同僚や顧客、上司からほめられたら、そのことをこのノートに書き記すよう奨励していたのである。ほめられた内容を、ノートに書いたり、パソコンやスマホのフォルダーに保存したりしておいて、仕事がうまくいかない日に見直すのは、お金はかからないし、手軽だし、それに何より役に立つ。

 ・・・私たちは、自分で自分をいちばんひどく批判することが多いし、ほめられたことよりも批判されたことを、ずっとよく覚えているものだ。だから「スマイル・ファイル」は、ほめられたことを忘れないようにするのによい方法だ。

 

P70

 デンマークでいちばんフラットな組織は、コペンハーゲンに拠点を置く2002年創業の建設会社ロギーク社だろう。この会社に上司はいない。会社の戦略は全従業員がいっしょに決める。全員が最高幹部であり、入札に参加するかどうかや、どの資材を使うか、さらには、会社の経営が苦しくなったら誰をレイオフするかに至るまで、みんなで議論する。レイオフの議論では、一部の従業員が自ら自宅待機を申し出ることもあれば、みんながいっせいに減給に応じることもあるだろう。ちなみに給料は、大工も経理担当も関係なく全員が同額だ。従業員はだいたい55人で、売上高は6000~8000万デンマーク・クローネー平均すれば約800万英ポンド(日本円で16億円)である。社会的責任を積極的に果たしていることでも知られていて、過去に失業した経験のある人をたびたび採用している。

 この会社の話は、多くの人にとっては現実のものと思えないかもしれないが、・・・世界一幸せな人のように働きたいのなら、まずは、そうした働き方は実現可能だと信じなくてはならない。

 

P89

 よく「人は職場を去るのではない。上司のもとから去るのだ」と言われるが、この言葉はデータからも裏づけられるようだ。仕事検索サイト「トータルジョブズ(Totaljobs)」の調査によると、イギリスでは49パーセントの人が上司を理由に仕事を辞めた経験がある。・・・

 

P117

 転職もデンマーク人が上位にランクされる分野の1つで、・・・デンマーク人はとても頻繁に転職する。そしてこれも、仕事で幸福を感じている原因なのかもしれない。「今の仕事が気に入らない?なら辞めちゃえよ」と言うのがデンマーク人だ。時給で働くパートタイマーなどを除くサラリーマンだけに注目すると、デンマーク人が転職するまでに1つの会社にとどまる年数は平均7.2年だ。ちなみにイタリア人は平均12.2年、フランス人は10.8年、ドイツ人は10.2年である。

 

P176

 ・・・偉大な哲学者―ではなく、俳優ジム・キャリーの言った言葉が結局は正しかったのだと気づく。彼は、こう言ったのだ。「誰もが金持ちになって有名になって、やりたいと夢見ていたことをすべてやればいいと思う。そうすれば、これが答えではないと分かるから」。

 

P179

「成功していること」の意味は、「自分のしていることに好感を持っていること」であるべきだ。実際、いい仕事をすると最高の気分になる。幸福とは、成功の究極の形なのだ。

 

P208

 2017年、フィンランドは2年を期限として、ある実験を開始した。政府は、もし人々に、生活に必要な最低限の金額「ベーシックインカム」を何の条件もつけずに支給したら、どうなるだろうかと考えた。・・・

 この考えは新しいものではなかった。スペインのバルセロナ市、アメリカのストックトン市、ブラジルのマリカ市、韓国の京畿道などが、ユニバーサル・ベーシックインカムの実験を行っている。しかし、全国規模で実施したのはフィンランドが初めてだった。

 フィンランド政府は、当時失業中だった人々から2000人をランダムに選んだ。それからの2年間、選ばれた2000人は、毎月560ユーロ(当時のレートで約7万3000円)の現金に加え、全員に認められた住宅手当330ユーロ(約4万3000円)を自動的に支給された。つまり、合計で毎月890ユーロ(約11万6000円)を受け取ったのである。

 これは、ぜいたくな暮らしができる金額ではない。フィンランド人の手取り所得は、就業者の場合は毎月平均2400ユーロで、学生の場合は約1000ユーロだ。それでも、月890ユーロというのは、倹約生活を送れば働かなくてもやっていける額だった。

 ランダムに選ばれた2000人が実験群で、それ以外の、通常どおりの給付を受け続けた失業者たち全員が対照群だ。

 予想では、ユニバーサル・ベーシックインカムを受けている人の方が、役所での煩雑な手続きに煩わされずに済むので、就職したり起業したりする割合が高くなるだろうと期待された。実験の結果は予想どおりで、実験群の人の方が対照群の人より雇用される割合が高かったが、その差はほんのわずかでしかなかった。

 いちばん大きな違いが見られたのは、実は幸福度で、際立った上昇が見られた。実験が終わった時点で、ユニバーサル・ベーシックインカムを支給されていた人は幸福度が10点満点で平均7.3点だったのに対し、対照群は6.8点だった。0.5点は大きな違いと思えないかもしれないが、人生への満足度は大きく変動しないことが知られている。例えば前にも触れたとおり、結婚によって人生への満足度は上昇するが、その差は平均およそ0.5点だ。またユニバーサル・ベーシックインカムを支給されていた人は、対照群の人と比べて、より健康になり、ストレス、悲しみ、憂鬱、孤独感のレベルが下がった。

 私としては、今後もっと多くの国で政府が同様の実験をする英断を下し、もっと緻密なセーフティーネットを整備して、人々が思い切って起業したり芸術家を目指したりできるようにしてほしいと願っている。コペンハーゲンのハピネス・ミュージアムでは、よく来館者に「もしあなたが自分の国で幸福担当大臣になったら、どんな法律を成立させますか?」と質問している。・・・成立させたいという回答が最も多かった法律案ベスト3は、ユニバーサル・ヘルスケア(国民皆保険制度)、週4日労働、ユニバーサル・ベーシックインカムの3つだ。

タイムトラベル 世界あちこち旅日記

タイムトラベル世界あちこち旅日記【毎日文庫】

 楽しく読んで、気分が軽くなりました。

 

P148

 韓国の書店イベントに招かれ、編集者とともに飛行機に乗った。2014年、街中のイチョウが金色に輝き始める季節だった。

 ・・・

 カフェでおもしろいなと思ったことがあった。

 韓国人の出版社の女性ふたり、日本人のわたしと編集者。四人でケーキを食べようとなり、

「ミリさんはどれがいいですか?」

 スタッフの方に聞かれたので、わたしは自分が食べたいケーキを選んだ。

 しばらくしてテーブルに注文したものが運ばれてきた。ケーキがふたつと、アイスクリームがひとつ。計3品。ここにいるのは女四人。

 誰かひとりだけデザートを食べないのかな?

 と思っていたらそうではなく、韓国ではひとり1個デザートを食べるというより、いろいろと注文してみなで分け合って食べるのが一般的なのだとか。

 だから、逆に仕事で日本に行ってカフェに入ったときは驚いたと言われた。

「日本の女の子、ひとり1個ケーキを食べておなかいっぱいになりませんか?」

 たしかに、おなかはふくれるし軽い罪悪感もある。それも含めてケーキというものだと思っていた。海外でこんなふうに文化の違いに触れたときのワクワク感!

 四人で3個のデザートをつっつきあい、和気あいあいのおやつタイム。他の席を見てみれば四人でケーキ2個のグループもいた。

 違いといえば、韓国のスタッフの女性にこんな質問をされた。

「日本では雨の日になにを食べるんですか?」

「雨の日に食べるもの?」

 わたしは質問の意味が理解できなかった。

 聞けば、韓国では雨の日によくチヂミを食べるのだという。

 雨が降るとお母さんがいつもチヂミを作ってくれるそうで、

「雨の音を聞くとチヂミが食べたくなるんです」

 その人は言った。

「日本では雨の日に決まって食べるものはないんですよ」

 わたしが伝えるとびっくりした顔になったのがかわいらしかった。雨音で恋しくなる料理があるなんてステキすぎる。

 

P156

 チェコで古本屋を巡る取材をしたことがある。首都プラハには絵本の古本屋がたくさんあり、店先のダンボールの中にどっさりと売られていた。チェコ絵本は画集のように美しいものも多く、ついあれもこれもと欲しくなってしまう。

 ・・・

 取材といえども、わたしも編集者も初めてのチェコ。自腹だし仕事というより東欧女子旅である。

 巡ってみてわかったが、プラハの街は観光しやすい。見所が離れていないので、プラハ城、旧市庁舎広場など、歩きやすい靴さえあればどんどん見て回ることができる。

 歳をとってからの海外旅行でも、プラハなら充分楽しめそうだなぁ。

 旅の間、無意識にそんなことを考えている自分がいた。

 この坂道なら大丈夫、この距離なら大丈夫。

 未来の自分の旅のために今の自分が確認しているのである。歳をとったらもうどこにも行かれないのかもしれない、と思う淋しさを払拭したいのだろう。でもへっちゃらだ。わたしにはプラハがある。

 プラハ1の人気スポットといえば、やはりカレル橋。全長約520メートル、幅約10メートル。大道芸人たちで賑わう橋の両側には立派な聖人像がずらりと30体。野外博物館さながらである。橋の上から眺めるヴルタヴァ川は見飽きることがなく、広々とした景色に胸がすうっとした。

 ・・・

 ヴルタヴァ川沿いにある「カフェ・スラヴィア」は1800年代にオープンした老舗カフェ。緊張しつつ店に入ったのだけれど、地元の人がひとりで新聞を読んでたり、友達とおしゃべりしていたりと気軽な雰囲気だった。

 窓辺の席に座る。

 キノコのスープを注文した。旅の日記をつけながら、やはりここでもまた「歳をとってもこの店にはひとりで来られるな」と考えていた。キノコスープは濃厚でクリーミィ。おかわりしたいくらいおいしかった。

 

P214

 トロンハイム空港で乗り継ぎコペンハーゲン空港まで約2時間。オーロラ鑑賞のパックツアー一行は海を越えてデンマークに入った。滞在は一泊だけ。・・・

 ホテルでチェックインを済ませれば終日自由行動。日本から同行の添乗員さんが、

「繁華街まで一緒に歩いて行きたい人はご案内しますので、30分後にロビーに集まってください。繫華街で解散しましょう」

 親切に言ってくれた。

 わたしはツアーにひとり参加だったので迷わず案内してもらうことに。時間通りロビーに降りていくとツアー参加者が全員いたのだった。

 ・・・

 行きたい店があった。デンマーク発祥のスーパーマーケット「イヤマ」である。・・・

 1886年創業の「イヤマ」はいわゆる高級スーパーマーケット。店内は広々として、商品のディスプレイも洒落ている。買い物カゴを手にした瞬間、アドレナリンが溢れ出た。

 海外のスーパーマーケット、大好き!

 ・・・

 あれこれカゴに入れていたところ、ご高齢の女性に声をかけられた。「日本に行ったことがあるのよ」と伝えてくれているようだった。言葉は通じないが笑顔で別れた。

 ・・・

 翌日は観光バスで市内観光へ。

 まずは人魚姫像である。・・・

 ・・・

 その後、アマリエンボー宮殿での衛兵交替を見学し、カラフルな建物が並ぶニューハウン地区を見てまわった。

デンマーク汚職が少ない国ランキング世界一なんですよ」

 現地ガイドさんがバスの中で教えてくれた。「ほほぅ~」とみなで感心。わたしはそんなランキングがあるのすら知らなかったので人知れずそのことにも感心していた。ちなみにこの旅をしたのが2011年。10年後の2021年発表の腐敗認識指数国別ランキング(ガイドさんいわく汚職が少ない国ランキング)の一位は同じくデンマークだった。つづいてニュージーランドフィンランドときて、日本は179ヵ国中19位という結果である。

 つかの間だったデンマーク旅。もう一度訪れることがあったら、いの一番に「イヤマ」に行きたい。

ある夜、ピラミッドで つづき

ある夜、ピラミッドで

 こんな不思議な実話があるんだ・・・と驚きでした。

 

P110

 古代エジプトの宗教は、歴史的には死んだ宗教である。

 ・・・

 ところが、二〇世紀の現代に、その死んだはずのエジプトの宗教を信仰しつづけた風変わりな人物がいた。ルクソールの北、上エジプトのアビドスで考古局職員として働いていたドロシー・エディという一九〇四年生まれのイギリス人女性である。

 ドロシーは二九歳でエジプトにやってきて、五〇歳を過ぎてからアビドスに住みついた。彼女は考古局職員として碑文やレリーフの写しをとるかたわら、葬祭殿のなかを古代の巫女の衣装を着て、裸足で歩きまわり、観光客が来れば神殿のなかを案内してまわった。そして一九八一年、七七歳で亡くなるまで、神々への祈りや供物を欠かさなかった。

 ・・・

 最初のきっかけは三歳のときだった。ロンドンの自宅で、ドロシーは階段から落ちて危篤状態に陥る。夢のなかで、彼女は花の咲き乱れる庭と、列柱のある巨大な建物を見る。彼女は、どういうわけか、その建物が自分のほんとうの家だと直観する。意識を回復した彼女は、喜ぶ母親に「おうちに帰りたい」と訴えて当惑させるが、それがいったいどこなのか、もちろんドロシーにも見当つかなかった。

 七歳のとき、父親のもっている雑誌を眺めていたドロシーは、そこに載っていた写真に釘付けになる。そこにはアビドスのセティ一世の葬祭殿と、セティ一世(在位紀元前一三一八-一三〇四)そのひとのミイラの写真が載っていた。ドロシーは叫んだ。

 ―これ、わたしの家だわ、わたしここに住んでいたのよ、それに、わたしこの男のひと知っている。でも、どうして、この家はこんなにこわれているの?庭園はどこにあるの?

 父親は嘘をついてはいけないとドロシーをたしなめ、その建物が三〇〇〇年も昔のエジプトの神殿であること、沙漠のなかにあって庭園なんてないこと、写真の男もまた三〇〇〇年前に死んでしまった王であることを、娘に伝えた。ところが、それを聞いた娘は、そんなはずないわ、わたしほんとうにこの方を知っているのよ、親切ですてきな方よといって、ついには泣き出してしまう。

 戸惑いをかくせない両親を尻目に、ドロシーの古代エジプトへの関心は高じていった。彼女は玄関でかならず靴を脱いだ。自分はかつてそうしていたからというのだ。ドロシーはキリスト教系の学校に通っていたが、賛美歌を歌うのを拒んだために学校を追い出された。教会のミサでは、宗派を訊かれて「古代エジプトの宗教の信者です」と答えて、司祭を驚かせた。

 ドロシーがいちばん落ち着く場所は、大英博物館のエジプト室であった。一〇歳のある日、いつものようにエジプト室でレリーフを眺めていた彼女に、ひとりの白髪の老紳士が声をかけた。・・・こんな時間に学校に行かなくてもいいのかい、と紳士は訊ねた。ドロシーは、学校ではほんとうに知りたいことを教えてくれないと答えた。紳士は、ほんとうに知りたいこととはなんだねと訊ねた。ドロシーは迷わず答えた。

ヒエログリフです!

 すると、紳士は、それならわたしが教えてあげよう、といった。・・・この老紳士こそ、大英博物館エジプト・アッシリア室長で、エジプト学の世界的権威ウォーリス・バッジ博士(一八五七-一九三四)であった。なんだか少女マンガみたいな展開である。

 ドロシーの上達の早さに舌をまくバッジに彼女はいう。

―わたしはずっと昔ヒエログリフを知っていました。ただ長い間、忘れていたんです。だから、わたしはいまヒエログリフを習っているのではなくて、先生の助けで思い出そうとしているだけなんです。

 一四歳のある晩、彼女は異様な体験をする。寝ていたとき、胸に重みをおぼえて目を開けると、自分の目の前にセティ一世の顔があった。それも写真で見たままのミイラの顔だった。ミイラのセティ一世は一言も口をきかなかったが、手をごそごそ動かすと、いきなり彼女の寝間着の首のところを引き裂いた。これはふつうだったら、たいへんな恐怖だと思うのだけれど、彼女はショックは受けたものの、それ以上につよい喜びをおぼえたと述べている。

 この晩以後、セティ一世は長い間、彼女のもとに現れることはなかった。しかし、以来、彼女はくりかえし同じ夢を見るようになる。彼女は周りを水路に囲まれた地下の部屋に立っている。前には、いかめしい顔をした高位神官らしき人物がいて、厳しく彼女を尋問している。しかし、彼女はひと言も口をきかない。やがて、神官は彼女を杖で打ち据えはじめる。あとになって彼女は、この地下の部屋がアビドスにあるオシレイオンという建物であることを知ることになる。

 ・・・

 彼女の関心は、折にふれて断片的に浮上する過去の記憶の全体を取り戻すことにあった。くりかえし現れるアビドスの神域、セティ一世の顔、それらにふれたときの異様なまでの懐かしさは、なにを意味しているのか。どうして自分は、あの神殿が自分の家だと思ったのか。いったい自分は何者なのか。それを知るために、ドロシーはいっそうエジプト学に没頭する。

 ・・・

 ベールが剥がれるように、過去が少しずつ姿を現しはじめる。それによると、彼女はセティ一世の時代、ギリシアの血を引く傭兵の父と野菜売りの母の間に生まれた娘だった。母は娘をベントレシャイト(喜びの竪琴)と名づける。当時としては珍しく、ベントレシャイトは金髪で碧眼だった。

 ベントレシャイトが二歳のときに母が亡くなった。父は娘を巫女にするためにアビドスの神官のもとに預ける。・・・彼女はイシス神に仕える巫女として、オシリス神の死と再生をめぐる神秘劇について学ぶ。

 アビドスは古王国時代からオシリス神信仰の中心地であった。・・・あるとき、ときのファラオ、セティ一世が、アビドスの神殿の視察にやってきた。ファラオは神殿の庭園で花を摘む、金髪で碧眼の美しい娘に心惹かれ、声をかける。少女はどぎまぎしたものの、男らしく、やさしいファラオに魅力をおぼえる。こうして二人は恋に落ち、庭園で密会をくりかえすようになる。

 ところが、この禁断の逢瀬の噂が神殿の高位神官の耳に入る。神官は、彼女を地下の部屋に連れていき、巫女としての誓いを破った罪は死に値すると告げ、共犯者の名前を白状するよう彼女に迫る。ドロシーの少女時代の夢にでてきた水路に囲まれた地下の部屋での尋問は、このときの場面だった。

 尋問と責め苦の末、彼女はついに逢瀬の相手を白状する。神官は相手がファラオだと聞いて驚き、王の名誉を守るため自害をうながす。彼女は迷わず、みずから命を断つ。ところが、あとでそのことを知ったセティ一世は、自分のせいで命を散らせた気の毒な乙女への思いを断ち切れず、三〇〇〇年の時を経て、ベントレシャイトの生まれ変わりであるドロシーのもとに現れたのである。

 ・・・

 昼間、ドロシーはエジプト学者の指導のもと、遺跡のヒエログリフレリーフを正確に写しとり、夜になるとスフィンクスに供物を捧げ、大ピラミッドの内部で夜を明かし、前世の記憶のなかのエジプトへと入っていった。彼女のなかでは二つの世界の間に矛盾はなかった。彼女のエキセントリックな側面を、エジプト学者たちも知らないわけではなかったが、だからといって彼女を異端視することはなかった。ドローイング技術の高さ、ヒエログリフの知識、文章構成の巧みさ、エジプト美術にたいするセンスなどの面で、エジプト学者は彼女を高く評価していたし、その不思議な人間的な魅力が、彼女のまわりに多くのひとを引きつけた。

 ・・・セティ一世はひんぱんに彼女のもとを訪れるようになった。セティは神秘学でいうところのアストラル体の姿で彼女のもとを訪れ、彼女を苦しめたことを謝罪し、愛情にいささかも変わりのないことを伝えた。彼女のアストラル体が肉体を抜け出して、セティのもとに赴くこともあった。セティはいつも五〇代半ばの姿で現れた。セティによれば、アストラル体で現れるときには、自分の望みの歳を選ぶことができるのだという。

 ・・・

 アビドスにやってきてから、セティ一世の訪問はいっそうひんぱんになった。セティは、死後の世界で彼女を探したが、ついに見つからなかったと語った。ファラオはそれから星々の世界をめぐり、彼女を探しまわったが、どこにも彼女を見出すことはなかった。すると嘆き悲しむ自分を哀れんだオシリス神が、彼女をもういちど地球に生まれ変わらせてくれたというのだ。

 ・・・

 彼女がユニークな仕方で、縫い合わせていった過去や記憶のなかには、想像の産物と割りきれない内容もたくさんある。たとえば、彼女はオシレイオンの写真を見る前から、そのイメージをはっきり描くことができた。久しく埋もれていた庭園の場所も、初めてアビドスの神殿を訪れたとき、すぐに指し示すことができた。それはのちの発掘によって実際に存在していたことが明らかにされた。また、彼女との対話のなかで、セティ一世はオシレイオンや、ギザのスフィンクスが、通説より、はるかに古いものだと語っている。これは、一九九〇年代にエジプト学雑誌上で話題になっていた「スフィンクス論争」(スフィンクスの建造年代が、その建設者とされていたカフラー王よりずっと以前だという説)を何十年も前に先取りしている。・・・

ある夜、ピラミッドで

ある夜、ピラミッドで

 帯の言葉の通り、大変そうじゃないところがほぼない・・・インパクトのあるエピソードばかりでした。

 

P9 

 エジプトで暮らすというのは、ある意味で、サーカスのお祭り騒ぎのなかで生活するようなところがある。日常が、予想のつかないスリルや、どんでん返しに満ちているのだ。・・・

 それでも、なにかと文句をいいながらも結果的に足かけ八年もエジプトに暮らしたのは、この土地や人びとのもつ、ある種とらえがたい懐の深さに支えられていたのだと思う。エジプトには、あらゆる解釈や意味づけを笑い飛ばすような、とめどなくタフで、無責任な生命の爆発がある。理不尽なこと、ばかげたこと、不条理なことだらけなのだけれど、エジプトはそういうものをすべて吞み込んで、なおもそこに在る。その驚異的な寛容さこそ、良くも悪くもエジプトならではの魅力なのだと思う。

 

P53

 エジプトに暮らしはじめた当初は、しょっちゅうおなかをこわしていた。

 べつに悪いものを食べたおぼえはないし、ふだんはミネラルウォーターを飲んでいた。それでも、急につよい差し込むような痛みがおなかに走り、そのあとはとどめようもない激しい下痢になる。ひどいときには発熱することもある。

 ・・・

 不思議だったのは、そんなとき日本からもってきた薬がまるで効かないことだ。よく正露丸を持参する旅行者がいるが、エジプトの下痢に正露丸が効いた話を聞いたことがない。経験では、正露丸だけでなく、日本の腹薬のほとんどはまず効かない。気休めにさえならないのだ。

 もちろん、下痢の場合はしゃにむに止めてしまうよりも、十分水分をとって、腹の中のすべてのものを出し切ってしまうほうが自然だということはわかってる。けれども、移動中など、そうもいかないケースもあるし、エジプトの下痢は勢いも痛みもかなり激しいので、ほおっておくのがつらいのだ。

 そんなある日、上エジプトで調査をつづけている文化人類学者の知人に、エジプト製の「ロモティル(lomotil)」なる腹薬が効くと教えてもらった。

「これ飲めば、ほとんどの下痢は一発で止まりますよ」と彼はいった。

 ロモティルは直径三ミリほどの小さな錠剤で、一錠でも、あるいはその半分でも十分効くという。さっそく、腹をこわしたときに、服用してみると驚いた。たちまちとはいかないが、一時間もたたないうちに、すっかり下痢が収まり、腹が楽になった。すごい。・・・

 ・・・

 エジプト暮らしも一年もするうちに、あまり腹を下さなくなった。・・・消化器系がエジプト仕様にチューンアップされてしまったようだった。

 消化器系ばかりではない。僕の場合、呼吸器系もカイロに暮らす間に、・・・すっかり適応してしまった。カイロの新市街を半日も歩きまわると、排ガスと砂埃で鼻の中は黒くなるし、喉はひりひり痛んでくる。ところが、そのうちにこうした環境にたいする適応なのか、ゼラチンのようにまとまった痰や鼻水を自由に出せるようになった。喉と鼻の分泌する粘液の量が増えて、入ってくる汚れが奥に入らないよう、からめとる機構がいつのまにか形成されていた。・・・

 ・・・

 それから何年かたって薬のストックが切れたとき、近所の薬局にロモティルを買いに行った。ところが、薬局のひとは、その薬はないという。・・・何軒か回ってみたが、どこの薬局にもない。いったい、どうしたのか。最後に入った薬局で、そこの主人がいった。

「ああ、ロモティルね。あれはもう売ってないよ」

「どうしてですか?」

「危険なんだよ、あの薬は」

「危険?」

「そう、なんでも毒が入っていたとかで、政府が販売を差し止めたんだよ」

 やはり、あの劇的な効き目はふつうではなかったのだ。いったいこれまで、どれほどのロモティルをひとにふるまったことだろうかと思うと、冷や汗が出た。薬局の主人は、いまはこいつがよく効く、これを飲めばどんな下痢でもぴたりと止まるといって、べつの腹薬をすすめてくれたけれども、素直に手を出す気にはなれなかった。

 

P124

「マダーム、きのう、うちの近所でたいへんなことがあったんだよ」

 ウィダードは、掃除の手を休めて箒を壁に立てかけ、妻に話しかける。

「ふーん」彼女は台所仕事をしながら、相づちを打つ。

「何があったと思う。焼身自殺だよ」

「うん?」彼女が手を止める。

「いつももめごとの多いうちだったんだけどね、そこの奥さんが頭からガソリンをかぶって自分で火をつけたっていうんだから」

「……」

「その奥さんが口やかましい人でねえ、いつもお金のことや何かで亭主をがみがみ怒鳴ってたんだよ。その日もいつものように亭主を吊るし上げていたらしいんだけど、だんだん興奮してきて、ついにこれみよがしにガソリンをかぶったんだから怖いよ」

「んー」

「でも、火だるまになった奥さんが目の前で転げまわっていたのに、亭主は助けようともしないで、じーっと見ていたらしいよ」

「はあ……」

「結局、騒ぎを聞いてやってきた近所の人が、毛布をかぶせて火を消して、クルマで病院に運んだんだ。奥さんは注射を一本打たれたらしいけど、そのまま死んじまった。奥さんを見殺しにしたっていうことで、亭主はそのあと警察に捕まっちまった」

「へえ」

「この日はね、まだあるんだよ、ほかの事件が。駅前でバスが爆発したんだ」

「……ウィダード、あなたの住んでいるところって、どんなとこなの?」

「バラディー(田舎風)なところだよ。ここみたいにきれいじゃないよ。それで話のつづきだけど、バスから黒い煙がもうもうと出てね……」

 掃除のおばちゃんのウィダードはとても話好きで、話しはじめるとつぎからつぎへと話が飛んで、なかなか終わらない。話題は家族の愚痴か、近所の噂話が中心である。・・・ひとしきりしゃべって気がすむと、「ああ、あたしはまた、たくさんしゃべっちまったよ。マレーシュ(すまないね)」といって仕事に戻る。

 

P253

 ワディ・ラヤンの修道院での祈りと生活のパターンはほぼ決まっている。毎朝、四時から七時まで教会で夜明けの祈り、そのあと食堂でそろって朝食。一時から一時半まで昼の祈り。そのあと食堂でそろって食事。五時から六時にかけて教会で日没の祈り。夜食は各自の僧窟でかんたんに済ませ、そのあと一人で夜遅くまで祈る。

 教会で祈るときと、食事のとき以外は、水を汲みにいったり、泉のそばの小さな畑に植えた作物の世話をしたり、掃除や炊事や洗濯をしたりする。食事の支度は見習い修道士のもち回りらしい。それ以外の時間は、各自の僧窟で過ごす。

 ・・・

「・・・ソーラーパネルがあったり、温水器があったり、浄化槽があったりするのには、びっくりしました。食糧はどうしているのですか」

「二週間に一度、カイロからクルマが来て物資や食糧を運んできてくれます。ここにもクルマがあります」

「クルマがあるんですか!」

「ええ」エリシャがいう。「泉の水を汲んだり、町に出るときに使います」

 ・・・

「たしかに、いまは便利になりました」エリシャがいう。「以前は夜、本を読むのに石油ランプを使っていたので、洞窟の天井が煤で汚れました。いまはソーラーバッテリーのおかげで、そんなこともなく祈りに専念できる。わたしは、それはよいことだと思います。でも、それだけのことです。われわれがなにも持っていないことには変わりがありません」

 エリシャは柔和な目を細めて、ぼくを見る。

「たしかに、ここにはバッテリーもクルマもある。それは祈りに専念するために、あったほうが便利だというだけです。われわれにとって、だいじなことは一つだけです。それは、神をあらゆる瞬間、深く感じることです。そのこと以外には、なにも求めません。ここにはなんの情報もありません。新聞もないし、ラジオもない。世の中のことはなにも知りません。戦争が起きようが、王さまが変わろうが、われわれは知らない。ときどき、外からあなたのようにやってきたひとが、世の中のことを教えてくれる。それを知ることはかまいませんが、知らなくても、ちっともかまわない。修道士にとっては、神を感じることだけが意味のあることなのです」

「けれども、それは逃避にはならないのですか」ぼくはいう。「この世界に山積みの多くの問題をなにもかも放棄することが、神を求めることになるのですか。それは無責任のような気もするのですが」

「たしかに修道士の生き方は逃避ではないかと批判されることがあります」エリシャはいっそう柔和な目で、ぼくを見る。「でも、逃げているというのとはちがいます。われわれは何もかも捨て去って、神にみずからをいけにえとして捧げたのです」

「いけにえ、ですか」

 エリシャはうなずく。

「われわれは国連のように戦場に赴いて、戦争をやめさせることはできません。それは修道士の仕事ではないからです。修道士の仕事は、己をいけにえとして神に捧げることです。そうすれば、神が世界を救ってくださる。修道士の仕事は、そのようなかたちでこの世界の救済に結びついている。だから、われわれは祈るのです」

「神はどこにいるのですか」ぼくはいう。

「神はあらゆるところ、あらゆるひとの内におられます。アダムを創られたとき、神はご自分の息を吹き込まれた。だから、ひとが神を求めれば、神はいつでも応える用意ができている。あなたが感じさえすれば、神はそこにおられます」

 神がいるかどうかなんて、ぼくにはわからない。だから、いるかいないかわからない神が祈りを聞いてくれるかどうかもわからない。けれども、これだけはいえる。たとえ神がいようといまいと、修道士たちは、その神という目に見えない存在に恥じない、高潔で、浄らかな者であろうとしている。この世界を創り、愛したという神の目で世界を見ようとし、その神の前に己をいけにえとして捧げようとしている。神はいないかもしれないし、人間が神になることもできないだろう。しかし、人間は、神というなにかにふさわしい存在になることはできるかもしれない。いるかいないかわからない神という存在を観想することで、この地上の美しさや不思議さ、悲しさにあらためて気づくことはあるかもしれない。そういうことに気づいた人間が増えれば、この世界が変わることもあるかもしれない。神が世界を救ってくれるということが、そういう意味だとしたら、ぼくはエリシャのいうことを信じられそうな気がする。

 ぼくには、もうひとつ聞きたいことがあった。修道士にとって、沙漠とはいったいなんなのか。・・・

「沙漠はいってみれば学校です。・・・

 ・・・沙漠はたしかに試練の場所かもしれません。そこでは修道士はいやおうなく、孤独と向き合わなくてはならない。しかし、いっさいを放棄し、なにひとつ失うものがないと気づいたとき、神の創られたこの世界の美しさがはっきりと見えるのです。すべてを捨て去ったとき初めて、いっさいを手にする。不思議なことです」

旅にでて日々ひとを好きになる

旅にでて日々ひとを好きになる ヨーロッパ・アフリカ大陸縦断自転車ひとり旅

 2011年から2015年にかけての、ヨーロッパ・アフリカ縦断自転車旅。

 心温まる話から、酷すぎる話まで、振れ幅の大きい旅の記録でした。

 

P106

 デンマークのフォルケホイスコーレは「人生の学校」とも呼ばれ、人間性を豊かにすること、民主主義的思考を育むこと、知の欲求を満たすことを目的としている。

 雨の日に「人生の学校」を訪ねた。ヒュン島、ボーゲンセにある「ノーヒュンスホイスコーレ(日欧文化交流学院)」。ヨーロッパで必ず行くと決めていたうちのひとつだ。

 理事長は日本人の千葉忠夫氏で彼がここの創立者である。施設を案内してもらいカフェテリアで昼食をとった。

 えっと、まずデンマークと日本の教師の違いってありますか。間抜けた顔で質問をする。

「教師になる平均年齢が違います。日本だと大学を卒業して、すぐに教師になるでしょ。試験に受からなければ講師などをして正規教員を目指す。でもデンマークでは違うんです」

 ・・・

デンマークでは教師になる前に見聞を広げる旅に出たり、留学したり、一般企業で働いたりしてから教師になる人が八割を超えます。教師が学校以外の世界を知っているということをこの国では非常に重要視するからで、それがなければ一人前の教師としてみてもらえないほどです。だから教師になる平均年齢は二八から二九歳です」

 ・・・

「それから教師は進学率を上げることではなく、俗にいう落第者や落ちこぼれを出さないことに全力を注ぎます。だからデンマークの教育はエリート育成には向きません。・・・デンマークの教師は一人ひとりの生徒が、どうやったら自分らしく豊かに生きられるかを目標にしています」

 ・・・

デンマークでは徹底して対話をします。多数決でバサッと少数意見を切るのではなく時間がかかってもとことん対話をしていく。少数でも意見を汲み取ろうとする空気が社会にあります。違いを排除せず、違いをいかす民主主義、それがデンマークです」

 ・・・

デンマーク人の民主主義は、脊髄に入っている民主主義です。身体で理解しているのです。クラスでも社会でも困っている人がいたら、その人を全員で助けていくのが当然だという教育を、家庭でも学校でも子どもたちは徹底して教えられて育ちます。この国は日本のような学歴社会ではありません。勉強ができる、できないで人の価値は決まらないことを国民が理解しているのです」

 ・・・

「人って、生まれただけで価値があると思いませんか。それぞれの人がそれぞれの価値を持っているから、勉強ができない人をバカにしたり障害者を差別することもないんです。デンマーク人はお互いを尊重し合い助け合って社会をつくるという意識が非常に強いのです。それが本当の民主主義で、この国の教師はそれを教えていくプロフェッショナルです」

 ・・・

 突然、師匠は「民主主義とは何か、西野さんはどう思われますか」と発問し、僕は困って「うんと、えっと」と発声した。

デンマークには資源がないので、人が資源だとしつこいほどいわれます」

あたふたする僕を尻目に師の講義は続く。

 ・・・

「日本ではデンマークのような福祉国家を〝高福祉高負担〟と言うでしょ。あれは間違いです。この国は〝高福祉高税〟というだけあって、正確にいえば高負担ではありません。教育や健康、日々の生活に関することは、多くが税金で支えられ、自分たちが受け取るものを自分たちで払っているというだけです」

 ・・・

「更にいうなら、デンマークはもう福祉という言葉が使われないレベルまで来ています。健常者福祉とは言わないでしょ。当たり前だからです。できていないからその言葉を使うのです。障害者福祉は障害者の生活、高齢者福祉は高齢者の生活で、それぞれの人が満足に暮らせるなら、福祉という言葉は社会から消えていくのです」

 ・・・

 いま僕は、民主主義とは、社会の構成員一人ひとりの自覚と覚悟をいうのだと考えている。私がこの街をつくり、この国をつくり、足下の生活をつくっている。私たちがつくってるという強烈な自覚と覚悟。社会をつくっているのは首相でも政治家でもない。僕たち一人ひとりなのだ。だから事が起こったときに国や政治家のせいにするのではなく、自分に責任があったと考える。責任があるから社会をつくる決め事に積極的に関わっていく。デンマークの国政選挙の平均投票率は約八五%。日本は五〇%前後だ。

 デンマークはこれまでに投票率が八〇%を割ったことはない。・・・ペナルティのない国の中ではデンマークは世界一投票率の高い国である。

 ・・・

 僕はデンマークが理想だとか、パーフェクトだなんて考えてはいない。完璧な社会なんて、強奪政治か、市民が考える力を奪われているかのいずれかだ。社会で多数の人が生きている限り必ず問題は生まれる。デンマークにもデンマークなりの課題があることは千葉氏も認めていた。でもデンマークは、僕が最も刺激を受けた国の一つで、学べるところがたくさんあった国だった。

 

P132

 セルビアベオグラード。学生四人が共同生活をしている一室の天窓から、ようやく春めいてきた陽光が僕の肩を滑っていった。

 ・・・

 今年(二〇一三)元旦、僕はチェコの首都プラハのカレル橋の上でセルビア人青年ヴェルコと出逢った。身長一九〇センチの好漢で日本に興味を持つ彼は、ベオグラードで待っていると連絡先を教えてくれていたのだ。

 ・・・

 この街に滞在し、彼らや家族たちの話を聞きながら、外側世界から眺めるこの国と内側から眺めるセルビアの風景がまったく違うことを僕は感じていた。外側世界が塗り固めた「セルビア人は悪者」という外壁は、この国を内側から眺めると、乾燥しまくった皮膚の角質のようにボロボロと剥がれ落ちていく。

 今はなきユーゴスラヴィアの名が、彼らの話の中に何度も登場した。民族ごとに分割、独立した国家より、多民族が共生していたユーゴが理想だったと彼らは語る。

 ・・・

 民族浄化と称し、スレブレニツァの虐殺サラエボ国立図書館の消失を図ったのが、ミロシェビッチ大統領を頭としたセルビア人民主主義過激派であることは、もちろん知っている。でも、ヴェルコやその友人や家族たちと接していると、あまりの優しさに泣けてくる。こんな人たちが人殺しなんかするわけないじゃないかと思えてくる。

 戦争を選んだのは最大の失敗だったと、ヴェルコは昨夜、冷静にそう語った。民族ごとに分割、独立した国家より、多民族が共生していたユーゴが理想だったと彼らは言う。どうすれば多民族が共生できるのか。僕もそこに、すべての平和への鍵があると思う。

 

P309

 僕はときどき、自分を河に浮いて流されていく一枚の葉っぱだと考えることがある。自分で考え悩み自らの意思で進んでいるように見えて、人間など歯牙にもかけない流れが僕を運んでくれているのではないか。それが自然だと思うし、僕はその流れを信頼している。運ばれていく先に必要な何かがあり、〝すべてはよいようになっている〟。

 これは主に母から学び、僕が旅の日々で育ててきたことである。

「必要なものがあなたの前に現れる」といつも言っていた母は、高校受験当日に「あんたの行くところが一番ええところ」といって送り出した。大学受験に失敗し第一志望の大学に行けなかったときも同じ台詞を口にした。だから僕はいつでも現状を肯定できた気がする。精一杯がんばった結果なら、そこに僕に必要な何かがあり、出逢うべき人がいると。

 ・・・

 いわゆる「受験に失敗」した僕は、図らずも全国トップクラスのマイナー県、佐賀に行くことになる。本当は別の地域に行きたかったのだが、しかしそこには心の底から出逢えてよかったー!と思える人や環境、意識の変化があり、その財産は僕の人生の重要な核になっている。・・・

 大学三年が終わって休学、最初の海外自転車旅は南米である。・・・旅に出てすぐに盗難に遭ったが、そのおかげで僕の人生観を揺るがす家族に出逢うことになる。・・・

 僕の願望ではアフリカに行きたかったのだが、それが叶っていたら命を失っていたかもしれない。盗難に遭ったのはショックだったが、そのおかげで危険に対する基準を上げることができた。人間の願望がそのまま叶うことと、それが〝幸せ〟に結びつくかは、イコールではない。

〝ある兵士の祈り〟という、こんな詩がある。

「大きなことを成し遂げるため力を願った。しかし謙虚さを学ぶように弱点を与えられた。

 より偉大なことをするために健康を願った。するとよりよきことをするために病を与えられた。

 幸福になろうとして富を願ったが、知恵を使うように貧困を与えられた。

 人の賞賛を得ようとして成功を願ったけれども、人間にとって神が必要であることを感じるため失敗を与えられた。

 人生を楽しもうとしてすべてのものを願ったが、願ったものは何も与えられなかった。

 しかし望んだものはすべて与えられた。

 だから私は、誰よりも豊かに祝福された」

 南北戦争の負傷兵が病室の壁に書き残したといわれている。・・・

 森羅万象に幸も不幸もないのだろう。あるのは、人間の解釈だけである。・・・つまらないと思うならその現実は本当につまらなく、同じ事象でも、これでよかったといえるなら、それは最高の現実だ。