満腹どんぶりアンソロジー お~い、丼

満腹どんぶりアンソロジー お~い、丼 (ちくま文庫 ち 15-1)

 美味しそう・・・今は「神田 天丼家」という名前で引き継がれているようです。

 

P46

天丼 久住昌之

 

 天丼というと、もはや俺は神保町の「いもや」の天丼しか、思い浮かばなくなってしまった。

 たぶん、この二十五年は「いもや」以外で天丼を食べた記憶がない。

 店内はカウンターのみ。

 メニューは三つ、「天丼」と「エビ天丼」と「お新香」。ほか一切無し。

 ビールなど飲み物も無し。

 この潔さがうれしい。こちらの心の煩悩までが、削ぎ落されるかのようだ。

 店の中にも余計なモノがひとつもない。のれんと白木のカウンターがいつもすごくきれいで、全部が丸見えの厨房は、いつ何時も清潔きわまりない。十八歳の時、初めてここで食べてから、この雰囲気は一切変わっていない。

 この雰囲気が、ここで天丼を食べる気持ちを厳かなものにしてくれる。かといってかしこまりはしない。実にリラックスできる。

 天丼というと、エビの天ぷらが二~三匹、丼から大きくはみ出しているのを良しとする人がいる。エビが立派なのが、良い天丼と考えるオヤジがいる。それもわかる。その人のために、この店にもそういう「エビ天丼」がある。

 でも俺は、そんなに魅力を感じない。エビがそんなに偉いか。ありがたいか。考え、古くないか。

 俺はエビの他にキスとかイカとか海苔の天ぷらののったヤツのほうが好きだ。

 要するに、いろいろな天ぷらが食いたいのだ。俺の方が意地汚いだけの気がしてきた。

 いや、俺の好きなほうを、この店では「天丼」と呼んでいる。勝った。

 そういう問題じゃない。

 とにかく少し遅い昼だ。

 空は晴れている(雨の日に天丼は合わない)。

 もう心は天丼と決めている。

 腹も天丼を待ちかまえてぺこぺこです。

 口の中も天丼臨戦態勢になっている。

 これで店が休みだったら、俺は地獄へ突き落されるだろう。

 遠くに白地に黒のシンプルな看板が見えた。嬉しくなってくる。足早になる。

 見えた。真っ白なのれんが揺れている。よし!

 引き戸はいつも開け放ってある。俺を待っていたかのようだ。席も空いている。

 座って「天丼」とひと言発す。

 店員が「天丼で」と返す。この「で」が付いただけのオウム返しの不思議な嬉しさ。「あと、お新香も」「はい」。無駄口ゼロ。

 ちなみに天丼五五〇円、お新香一〇〇円。この値段もシンプルで光り輝いているようだ。

 お茶とお新香が同時に出てくる。この緑茶がおいしい。厚手のオーソドックスな、昔の職員室にあったような湯呑みで供されるのも何か、心温まる。

 お新香は白菜漬けで、量もしっかりあり、出されるとき店員によって醤油がちょびっとかけられて出てくる。これが、適量。

 カウンターに醬油差しやら七味唐辛子がないのも、清潔感に一役買っている。

 店主の、筋の一本通ったところをかいま見るようだ。

 天ぷらが目の前で揚げられる。それがほぼ同時に入った客の分と自分の分であるのがわかる。

 その客もじっと天ぷらを見ている。彼と俺、今、心はひとつ。腹減った。

 そのうち味噌汁が出てくる。前兆だ。いよいよ、来る。期待が高まる。

 味噌汁をひと口すする。シジミ汁だ。俺のもっとも好きな味噌汁のひとつ。肝臓が歓声を上げるのが聞こえたような気がする。

 ご飯がおひつから丼に盛られた。このおひつのご飯がウマイのだよ。むふふふ。遠くから見てもウマそうだ。ツバが出る。

 お新香を一切れ食べて心を落ち着かせる。お茶ひと口。

 さあ、天ぷらがのった。タレがかけ回された。

 ここのタレは量が少なめな分、ちょっと辛目で、なんとなく江戸っぽいか?ああ、早く早く。

「おまちどうさま」

 はいはい、来ました。さあ、いただこう。

 何から行くか。俺は大抵、イカ。これをひと口。ウン、前歯で十分切れる柔らかさ。ぽってりと厚い。

 で、飯。うん。ふくよか。ああ、ウマイ。これだぁ。

 次、キス。これがまたうめえんだ。軽くてサッパリして。辛いタレとコロモがバッチリ。

 飯。エビ。うん、こりゃプリプリしていいエビだ。ウマイ。でも別に特別視しないよ。

 俺は平等に食べ進む。海苔。これがなんともウレシイ。お、海苔にタレが余計かかってる感じだ。職人さん、考えた?わざと?この部分は後半で、飯と天ぷらの帳尻を合わせるときに利用しよう。

 お新香で口直し。味噌汁。ここで初めて一息つく。

 無意識に前のめりになっていた背筋を伸ばす。しあわせ。

 もう一度天丼に立ち向かう。ボリュームがしっかりある。飯もしっかりある。

 サッパリした天丼だが、それでも天ぷらである以上、ある程度脂っこいから、食べ進むウチお新香がどんどん重要になる。そしてお新香がどんどんおいしくなる。たっぷりあることに感謝。

 食べ終わる頃はお腹がいっぱいで、体が発熱している。

 冬でもセーターの中に汗をかくほどだ。みんな黙々と食べて、幸福そうな顔をして出ていく。

 無口な店員が最後に言う「ありがとうございます」がしみる。心を込めて「ごちそうさま」と答えて席を立つ。

 幸福な俺は「さぼうる」にコーヒーを飲みにゆく。食い意地、鎮静せり。法悦。