高山なおみさんのエッセイです。
P216
去年の夏、ミュージシャンの青柳拓次さん、原田郁子さんといっしょにトークイベントをした。
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それで、私からひとつ質問を出し、参加の申し込みのときにメールで答えてもらうことにした。当日はゲストと私も、同じ質問に答えながら進めてゆけば楽しいかなと思って。
「あなたにとって、伝えるってどんなこと?
伝えたい気持ちってどんなふう?
ひとことでもいいし、長くなってもかまいません。
あなたがこの質問からイメージしたことを教えてください」
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子供の頃、私は吃りだった。
三歳になってもことばが出てこなかったそうで、双児の兄に頼りすぎていたせいじゃないかと母はいう。
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高校を卒業して上京してからも、人前に出たり、電話をかけるのが苦手だった。
学校の出席とりで自分の番がまわってきても、みんなと同じスピードで「ハイ」と返事ができない。
「喋り方が変わってる」とか、「なんでそんなに小さい声なの?」とか、よく笑われた。
私が話しはじめると、同情した顔になったり、眉間に皺を寄せてイライラそわそわしたり、貧乏揺すりがはじまる人もいた。
話し方がのろいのは、「ゆっくり、落ち着いて喋りなさい」と、母や教室の先生にさんざん言われたからだし、声が小さいのは、長いこと自分に自信がなかったせいだ。
けれど中には、耳を澄ませて、体中で聞こうとしてくれる人がいる。
表情の動きや、声の震え、指の動きとか。
ことばでないものまですくって、聞こうとする。
そういう人の前では、不思議と私は吃らない。
私はこれでいいのかな……と思う。
少しずつ、少しずつ、自信がわいてきて、自分の想いにぴったりくることばを探しながら、体の外へ出してやる。
そんなふうにして、つっかえずに話せるようになった。
私の吃りは武器でもあり、苦手な人を寄せつけない、魔よけのようなものだったのかもしれない、と今は思う。
そうか、私はずっと、「伝える」ことにこだわっていたんだなあ。
どうしてそんな質問をしてみたくなったのか、みんなの答えを読んでいるうちに、ようやく思い出したのだった。
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応募メールには、こんな答えもあった。
「伝えることは、ヘドロだらけの沼の奥底に手をつっ込んで、これしかないという石ころやガラクタを落とさないようにそっと引き上げ、丁寧に名づけること」
喩えの域まで磨き上げられた短いコメントの中に、どんな意味が含まれているのか。
私はとても聞いてみたかった。
会が終わって何日かしたある日、メールが届いた。
私は、彼女のことをヘドロちゃんと呼んで、プリントしたこのメールを今でも大事にとってある。
ご本人に承諾を得て、最後に載せさせていただきます。
―実は、郁子ちゃんに私の「伝えるということ」(ヘドロがどうのこうの)を読んでいただいたのですが、勇気が出ず、「はい!私です」という言葉は、のどに引っかかったままでした。
すきあらば、高山さんに、直接気持ちを伝えたいという野望もけっきょく果たせないまま……
だから、こうやって手紙を書いてみることにしました。
お時間を拝借します。
私は、小学校の保健室の先生をしています。
私の使命の一つは、子どもの「あーでもない、こーでもない気持ち」にひたすら付き合うことだと思っています。
それは、もともと私の数少ない得意分野でもあります。
あいまいなものをあいまいなままに、しばらく泳がせておけること。
でも、この私の得意分野は、あまり歓迎されないことも多々あります。
何しろ時間がかかるからです。
今、働いている学校の先生たちは、とても熱心です。
夜中まで働き、へとへとになりながら毎日よりよい授業について考えています。
でも(だから、か?)、子どもの気持ちを、すぐにハッキリさせようとしがちな面があります。
「これとこれとこれのうち、あなたの気持ちはどれ?」
「で、これとこれとこれのうち、あなたはどうしたいの?」
そうやって、本当はどれでもない気持ちに、テキトーなとりあえずの名前がつきます。
そんなことを繰り返していると、自分の気持ちがどんどん見えなくなり、どうでもいいものになっちゃう気がするのだけど。
「何かちがうな」と思いながらも、「ハッキリしないこと」が嫌われるその空気に、数年前までの私は何度も飲み込まれていました。
小さい頃から、何でもトロトロとしかできず、そのことにコンプレックスを感じて育った私は、「遅い!」「早くして!」の圧力に、過剰に反応してしまうのです。
こんな時の私はもう最悪です。
言葉がしどろもどろになり、へっぴり腰もいいところです。
そして、その後は決まってひどく落ち込みます。
そんなことを繰り返していた頃、高山さんの本や日記を読み、「うわー、他人な気がしない」と勝手に思い、涙が出るほどうれしくなったのを覚えています。
すっかり仲間を得たような気持ちになり、だんだん「私は私の感覚を信じてやっていこう」という気持ちが揺るぎないものになっていきました。
今は、子どもと一緒におなかが痛くなるまで笑ったり、一緒にモヤモヤしたりする日々が、ただただ愛しいです。
それは、自分にも他人にも、何にも嘘がないからだと思います―
