読みながら、ですよねーと思うことが多かったです。
P2
・・・「レンタルなんもしない人」という活動。告知前は300人くらいだったフォロワー数が、約10ヶ月経ったころには10万人を超えていた。・・・
当人としての素朴な感想は「すげえ!なんじゃこれ!なんで⁉どうなってんの⁉どういうこと⁉」である。ちょっと面白いかなと思って始めたのはたしかではあるものの、書籍化とか、漫画化とか、テレビ取材とか、そんな規模にまでなるとは思っておらず、ひたすら驚いていて、その驚きを表には出さないように淡々と振る舞っていると今度は「オーラがある」などと有名人扱いを受け、そこでまた驚いている。
・・・だって「なんもしない人」である。会社で、家庭で、バーベキューで、よく怒られるやつである。そんな存在があえて「求められている」という現実をどう受け止めたらいいのか。
そういった驚きと混乱を伴った疑問に対して、なんらかの答えを出そうとしたのがこの本である。・・・
P36
引き受けた依頼が肌に合わず、途中で切り上げてしまったことが一度だけある。
依頼者はとあるイベントの主催者で、依頼内容はそのイベントに客として参加してほしいというものだった。
そのイベントは、何人かの登壇者がそれぞれ自分の実現したい夢を語っていて、その夢の内容や各人のプレゼン能力をお客さんが評価し、最も高い評価を受けた人はその夢を実現するための支援を受けられるというものだったと記憶している。そのイベント自体になんら怪しいところはなく、いたって健全なものだったのだけれども、開会の挨拶で司会の人が「みなさんのなかには夢を持っていない人はいないと思います」とか「未来のことを考えていない人はいないでしょう」みたいな話を始めた瞬間、僕は「自分はそれに当てはまらないな」と思ったというか、勝手に押し付けがましさを感じてしんどくなってしまったのだ。
そして、イベントが始まってから30分くらい経ったころ「このまま参加していたらツイッターでネガティブなことを書きかねない」と判断し、依頼者にDMで「すみません。気が進まなくなってしまったので、交通費はいらないので早めに帰らせていただきます」と送った。依頼者からは「かしこまりました」という返事が来て、同時にブロックされた。
これに関しては、とても申し訳なく思っている。しかし、依頼を途中で断ることも大きなストレスになるのだが、その場に居続けることで受ける負担のほうが、それを上回ってしまったのだ。
なぜ「夢」というワードに押し付けがましさを感じたのか。あとから考えると、言葉そのものというよりは「夢」というワードを口にする人に対する偏見が僕にはあるかもしれないと思った。
そう、まさに偏見であって、僕の私見なのだけれど、そういう人は「夢」というのは「世のため人のためになるものであるべき」みたいなことを前提にしている気がする。それが説教くさいのだ。
・・・
だからといって僕があらゆる「夢」に対してイヤな感じを抱いているわけではない。僕も「あなたの夢はなんですか?」と問われれば「なにもしないで生きていくことです」と即答する。でも、それは「誰かのため」じゃなくて自分がそうしたいから。「夢」なんてその程度でいいはずなのに、なんだか大仰な物言いをする人に対しては、あえて意地悪な言い方をすると、なんらかの賞賛を期待しているのではないかと勘ぐってしまうのだ。
P53
先ほど僕は「○○ができる」のように、なにかを可能にする能力を個性とみなされたくないという意味のことをいった。これと似たようなことを就職活動中も考えていたかもしれない。
それは大げさにいえば「レンタルなんもしない人」の活動理念ということにもなるが、僕はいま、人や社会に対してなにか役に立つことができる人でなくても、つまりなにもできそうにない人であってもストレスなく生きていける世の中になってほしいと、わりと本気で思っている。それは、僕自身が肌で感じている人の価値と、社会のなかでその人が評価される価値のあいだにギャップを感じているからだ。
少し自分の話をする。
僕には兄と姉がいる。正確には半分はいた、といえばいいのかもしれない。一番年長である僕の兄は、大学受験がうまくいかなかったことがきっかけで体調を崩してうつになり、以来、一度も社会で働くことなくいま40歳を迎えている。姉はというと、彼女は就職活動にずいぶん苦労したのだけれど望むような結果が得られず、それが心の大きな負担となって、自ら命を絶った。
受験や就活の失敗は原因そのものではなく、なにかの勢いを加速させる。あるいは衰退させる引き金の一つにすぎなかったのかもしれないし、二人が不調を来したその時期が、人生において複合的にストレスの多い年頃だったのかもしれない。
いずれにしてもそれらに直面したとき、僕は学生だったけれど、自分の身内である兄や姉の価値というものが、世間的ななんらかの目的によって歪められたり、損なわれていると感じた。・・・
・・・僕自身にとって姉はただ存在しているだけで価値があった。そのギャップが、社会的な尺度でいうなにもできなさそうな人にとって、ものすごいストレスになる。そういう世間に合わせることによって生じるストレスで人が死ぬ、あるいは本人に備わった力がどんどん弱まっていく場面を目の当たりにしたのだ。
そういう意味でも、僕自身があえて「○○ができる」とわざわざ表明することはしない。・・・「なにかができるから価値がある」だと、既存の価値に当てはめられてしまう。だから僕は、なんもしない。
P119
・・・その依頼者(ここからちょっとややこしくなるので「Aさん」とする)が引っ越し先の大阪でお店を開いているらしいことをツイッターの投稿で知り、ちょうど僕も大阪へ行く用事があったので、事前には知らせずお店に寄ってみたのだ。が、お店は閉まっていたためAさんには会えなかった。
せっかく来たのでなにか自分が付近まで来ていた痕跡を残せないか考えてみたところ、別の人から次のような依頼があったのを思い出した。
✉こんにちは。突然の連絡ごめんなさい。
当方オーストラリアのタスマニアに住んでいるのですが、ここ最近何故か運が悪く、次何かあったら死ぬんじゃないかというくらい怯えています。ケータイ紛失から始まり、クレカを不正使用されたり、運転中カンガルーが飛び出して来てボンネットとフロントガラスが潰れたり(カンガルーは無事)、また別の日前を走っていたトラックからシャベルが飛んできてそれを避けようとしたため車が横転する大事故を起こしたり(これにて車は廃車)、小さいことはたくさん他にも有るんですが、流石に大きな事故に短期間で二回も遭遇していて怖いです。
なかなか大変な目に逢われているが、要は「死神に狙われているとしか思えないことが起こっているので、神社の前を通ったとき『たまにはオーストラリアにいる日本人のことも気にかけてやってくれ』と心のなかでつぶやいてほしい」という依頼だ。この依頼を、大阪のAさんの店のすぐ近くで見つけた神社で済ませ、かつその神社の写真も撮ってツイッターにアップしたのだ。幸いにもそれが間接的にAさんにも伝わったようで、そのことが嬉しかったものと思しきツイートも(それも間接的にだが)見られた。
さらに、今度はAさんが東京に来る用事があり、そのときにまた「レンタルなんもしない人」を利用してくれた。つまりリピーターということになる。
はたして、このAさんと僕の関係はなんと言い表せばよいのだろう。何度か繰り返し会って、楽しく会話もしている時点でもはや「無関係の他人」とは呼べそうもない。かといって「友達」なのかというと、そういうわけでもない。
たぶん、この名前を付けられない不確かな関係性が、いろいろと具合がいいのだろう。「いろいろ」というと漠然としすぎているが、たとえば「お互いに余計な気遣いや期待感が生じない」とか、そういう感じのやつだ。
P202
僕は第1章で、「レンタルなんもしない人」を始めようと思ったきっかけとして、心屋仁之助さんが提唱されていた「存在給」という概念を挙げた。それとは別に、遠因というか、気持ち的にふわっと影響を受けていたかもしれないと思うのが、生まれたばかりの自分の子供だった。
赤ちゃんは有能なわけがなく、スペックはゼロ。自分はなんもしないでも、親をはじめとする周りの人たちにかわいがられ、世話をしてもらうことで生きていける。そんな赤ちゃんを見ていて「いいな」と思った。そして「世の中の人たちみんなが赤ちゃんみたいに振る舞っていても生きていけるようになればいいのに」という気持ちが芽生えたのだ。
一般的には、そんな考えは少なくとも成人する前に捨てておかなければならないだろう。でも、僕の場合は、その発想が「レンタルなんもしない人」を生む土壌にとっての肥やしみたいなものになっていたんじゃないかと思う。すごく大げさにいえば、思想ということになるかもしれない。・・・
