「やめてもいい」という発想は「自分がいいと思うところまででいい」ということでもある、という言葉が印象に残りました。
P78
アメリカでは、引退が非常に軽い。ヨーロッパもアメリカと似たような状況だ。
オリンピックを目指して練習していたアスリートが、練習中にアキレス腱を傷め、病院で見てもらったら手術しなければならないと言われたので、ちょうどいいから引退する、そう言って翌週から来なくなることもあった。
金メダルを取ったアスリートが、テレビ局から依頼されてキャスターの仕事をやってみたところ、その仕事に魅せられてしまい、シーズンの途中だったにもかかわらず、それっきりグラウンドに来なくなったこともあった。
アメリカでもヨーロッパでも、極端に言えば「引っ越しをしたから」くらいの理由で軽やかに引退してしまう。
日本人の感覚からすると、とうてい理解しがたいタイミングだ。オリンピックや世界陸上のような大きな大会ではなく、毎週のように開かれている小さな大会で勝ったのを最後に引退する。金メダル級のトップアスリートが、シーズン途中にキャリアチェンジしてしまう。日本とは、引退に対する考え方がまったく違うのだ。
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引退の美学。あるいは引き際の美学。
日本人は全力を尽くして全うするという考え方が強い。しかも、やめ方は万人に納得してもらえるような美しさがなければならないと思い込んでいる。・・・
P104
僕の人生を振り返っても、実は勘からくるもので判断していることが案外多い。昔は勘で決めたことをあとから論理的な理由づけをして、まるでそれを意識的に考えたものと思っていた。
今の僕には「勘にゆだねる感覚」のようなものがある。要は意識的に考えようとする自分を制御して身体に判断させる感覚だ。・・・
どんな分野においても「あの人はすごい」と言われるような人は、無意識と意識のバランスが普通の人に比べて格段にいいように見える。勘にゆだねるときはゆだね、論理的に詰めるときは詰める。無意識にその塩梅を判断しているところが「すごく」見えるのだ。
能力には生まれつきの部分があるが、「勘」は経験によってしか磨かれない。だから多様な経験、とくに頭で考えてもどうにもならない極限の経験をしている人のほうが、ここぞというときに強いのではないだろうか。
P190
あなたが今やっていることを諦めろと言ってくる人は、「自分と同じになってほしいから」そう言っているのか。客観的に見て、勝算はないからやめろとドライに言っているのか。それを見極めたほうがいい。
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人の夢は本来自分に迷惑がかかるものでないかぎり、他人には口出しすることができない。それでも諦めた人は他人が生き生きしていることが気になって仕方がなく諦めさせたい。だから相手に口出しをするための接点として「正義」や「親切」が使われる。あなたのためを思ってという言葉には、本当にこちらのためを思ってのものと、その人の鬱憤を晴らすためのものと二つある。
本当は欲しかったものがあって、一生懸命がんばったけど手に入らなかった。挫折からうまく立ち直れなかった人が嫉妬に染まる。自分が持っていないものを他人が持っているだけで恨めしい。とにかく幸せそうな他人が羨ましい。でも羨ましいと素直に言えるほど本心をさらけ出す勇気がないものだから、攻撃することで人を引きずり下ろそうとする。
こうした人の根幹には「人と自分が同じである」「同じでないといけない」という平等願望があるのだと思う。犠牲と成果はバランスするという世界観から抜け出られていない。世の中というものが不平等で、不条理だということが受け入れられない。
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この感覚を、西洋哲学の言葉では「ルサンチマン」という。
ルサンチマンは、支配される者の支配者に対する恨み、下の階級の人たちの上流階級に対する敵意と訳されるが、つまりは嫉妬や執着と似た感覚だ。この嫉妬や執着は、万国共通である。・・・東洋では、そうした感情を鎮めるための一つの考え方として、諸行無常に行き着いたのだろう。
諸行無常とは「この世のすべてのものは絶えず移り変わり生滅するもので、一刻も同じ状態を保つことがない。仏教の基本的な考え方の一つで、人生のはかなさをいう言葉」(三省堂『故事ことわざ・慣用句辞典』)という意味がある。
人はもともと不平等に生まれついていて、よい行いをしても早く死ぬかもしれないし、悪事を重ねても長生きするかもしれない。自分が成功してもその成功が長続きするわけではなく、自分が失敗しても失敗したまま終わるわけでもないのだ。
P202
何でもかんでも手当たりしだいに手に入れることで、幸福が得られるわけではない。
むしろ、ある段階がきたら「もうこれはいらない」と手放していくことで、幸福が近づいてくるのではないだろうか。最近の僕はそんなふうに思うようになった。
「何も諦めたくない」という姿勢で生きている人たちは、どこか悲愴である。
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あれも、これも手に入れたいという発想の行き着く先は、つねに「できていない」「足りていない」という不満になってしまう。・・・
P207
ある心理学の実験で、子どもが自発的にやっていることに報酬を与えると、モチベーションが下がることがわかった。報酬というのは、義務を果たしたことに対するご褒美だ。ご褒美がもらえなくても面白いからやっていたことが、義務として強要された瞬間につまらなくなってしまう。
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「今」に意識をおけば、・・・将来の結果で報われるかどうかはわからなくても、「今が楽しい」というその状態こそが報酬になっている・・・皮肉なことにそのとき、楽しんでいる本人には「努力と成功の取引をしている」という感覚がない。
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「やめてもいいんだよ」「やっても得にはならないよ」と言われても、意に介さずにやる人に共通しているのは、他人に評価してもらわなくても幸福感が得られているということだろう。
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わかりやすいビッグな目標、絵に描いたような幸せ。こうしたものを求める感覚は、ソーシャル・メディアの発達によって拍車がかかっているように思える。・・・
・・・より高みを目指すのは価値のあることだ。だが「自分はここまででいい」という線引きがしにくい時代になっていることは確かだと思う。「やめてもいい」という発想は「自分がいいと思うところまででいい」ということでもある。幸せや成功の度合いにランキングなどないのだ。
P240
「陸上なんか、いつだってやめていい」
僕の母は、僕が陸上を始めたころから引退を決意する直前まで、こう言い続けていた。この言葉のおかげで、僕はやめてもいいしやめなくてもいいという心境で競技に向き合うことができた。だからこそ、ここまで長く競技生活を続けられたと思っている。
その母は、こんなことも言っていた。
「平凡な人生を」
「大それたことをしない」
陸上だけではなくすべてのことにおいて、僕がこれまで自由に人生の選択を重ねてこられたのは、こうした母の言葉があったおかげだ。
