バッグをザックに持ち替えて

バッグをザックに持ち替えて (光文社文庫)

 思いがけず、登山を始めることになったお話。

 今の季節は気持ちいいだろうなー・・・

 

P111

 さて、山にはさまざまな逸話がある。

 時にはぞっとするような体験をすることもある。

 ある時、あまり体調がよくなかった私は、最後尾を歩いていた。私の遅れを気にしてくれるメンバーが、何度も立ち止まってくれるのが申し訳なくて「ひとりで大丈夫だから、先に行って」と、言った。そのコースは何度も登ってよく知っていたし、天気はよく、迷う心配もなく、合流地点もわかっていた。

 やがてみんなの姿が見えなくなった。私は自分のペースでゆっくり登っていった。すると、背後から足音が聞こえて来た。

 ああ、誰か来たんだな、道を譲らなくちゃ。

 と、脇道に逸れて振り返った。けれども誰もいない。

 あれ、聞き間違いだったかな。

 再び歩き始めると、また足音がする。でも、振り向いても誰もいない。風の音だろうか。・・・

 ようやくメンバーたちと合流して、足音について話すと、リーダーが言った。

「山ではよくあることだから、気にするな」

 えっ……?

 実際、登山家たちはその手の経験をしている人が多いという。

 ・・・

 こちらはWさんの話。

 学生時代、山岳部に入って初めて冬山縦走に出掛けた時のことだ。夜、部員たちが無人の山小屋に入って寝ていると、零時に近い時間になってドアをノックする音が聞こえてきた。慌ててWさんがドアに向かおうとすると、隊長が「いいから寝てろ」と止めた。

「でも、誰か来てるみたいなんですけど」

「入りたいなら、自分で入ってくる」

 リーダーは素っ気ない。考えてみれば確かにそうだ。ドアに鍵が掛かっているわけじゃない。山小屋には誰でも簡単に入ってこられる。どうして中に入ってこないんだろう。不思議に思っていると、隣の先輩がそっと教えてくれた。

「冬にこの山小屋に来るといつもそうなんだ。一晩中、こうしてドアがノックされる」

「それって……」

「まあ、そういうことだ」

 翌朝、山小屋の外に出てみたが、雪の上には足跡ひとつなかった。

 その他にも、危険な岩場で誰かに背を押されたような気がする、とか、ロープを使って岩壁を登攀中に誰かがザックにしがみ付いたように重くなった、など、さまざまな話を聞く。霊感などまったくない私だけれど、出会わないとは限らない。・・・

 もちろん怖い話ばかりじゃない。いい話だってある。

 Tさんからはこんな話を聞いた。

「友人とふたりで登っていた時、木の根に足を引っ掛けて転んでしまってね。足首を捻って動けなくなって、その上、岩に額をぶつけて結構な出血があった。それでそこからニ十分ほどの山小屋に友人が助けを求めに行ってくれたんだ。とにかく額からの出血がひどくて、押さえたタオルが真っ赤になった。そりゃあ不安だった。俺ひとりだし、もしかしたらこのまま死んでしまうのかもなんて考えた。そうしたら、どこからともなくおじさんが現れたんだ。『ひでえな』と、おじさんは言うと、草叢に入って葉っぱを摘んできた。それに唾を掛けて、手で揉んで、俺の額にぴたって貼ったんだ。『これで血が止まる』ってぼそっと言って、すぐにどっかに行ってしまった。その後、友人が山小屋の人と一緒に救助に来てくれたんだけど、後で聞いたところによると、葉っぱは血止めの薬草ってことだった。友人はいい登山者に出会えてよかったなって言うけど、後で考えると、あのおじさん、登山者とは思えないんだよね。標高二〇〇〇メートル以上あるのに、ザックも背負ってなかったし、服装もラフなシャツとズボンだった。俺、その時思ったんだ。あれは山の神様だったんじゃないかって。そうとしか思えないタイミングなんだ。それ以来、山に登る時は、麓の神社や頂上の祠には必ず手を合わせるようにしている」

 どうせ出会うなら、やっぱり神様の方であって欲しい。

 ・・・

 山には狐も熊も鹿も猿も棲んでいる。

 そして、きっと神様も魔物も潜んでいる。