仏教用語の「選択」は、「不必要なものをはぎ落して大切なものが残るという意味」というのが印象に残りました。
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悩み2 哲学や仏教は、何の役に立つの?
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仏教の答え 仏教は、一般的な悩みには役に立たない
大來 この質問は、仏教的な立場で言うと、仏教を誤解されている方の典型的な疑問だと思いました。
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・・・世の中には様々な苦しみがありますが、仏教で言う「苦」とは、物事は思い通りにならないという「不満足の心」のことを指します。仏教はこの「不満足の心」という名の「苦」にしか作用しないのです。この「不満足の心」という名の「苦」を、これ以上増大させたくないと思うならば仏教を勉強して、教えを実践することで効果が現れてくることでしょう。しかし、別にこのままの現状でいいのであれば勉強する必要はないのです。
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仏教を勉強するとどうなるかという質問をよく受けますが、仏教を私事として勉強していくと、自分のことが嫌になってくると思います。なぜなら、仏教を学ぶということは自分を知っていくことだからです。私の場合、仏教を学問として勉強したところ、一般的に人が考えないことを考えたり、知らないことを知ることによって、頭でっかちになりました。そして、いつの間にか自分が偉くなったように錯覚したんです。でも、それって大きな間違いなんですね。本当に仏教を勉強していくと、自分のどうしようもない人間性を自覚することに繋がっていくんです。
しかし、そんな中にあっても、救いはあります。それは「悪人正機」という教えです。「悪人正機」の「正機」は「目的」を意味し、これは「悪人」こそが阿弥陀如来という仏さまの救いの「目的」であるということです。浄土宗、浄土真宗ではとても大切にされている教えの一つです。
おそらく、一般的なものさしで考えると、なぜ「善人」ではなく「悪人」を救うことが「目的」になるのか違和感を覚えると思います。しかし、この「悪人」は、社会的な呼称にとどまらない、もっと人間の内省に関わる意味を持ちます。どういうことかと言うと、自分のことを本当に救いようもない人間であると正直に認めることができる人のことを「悪人」と言うのです。このような方々は、人には言えない様々な苦悩を抱えながら、人目を避け、肩身の狭い思いをしながら生きておられることでしょう。そのような方々を、見捨ててはおけない、放っておけない、救いたいと願うのが、阿弥陀如来の親心なんですね。これが「悪人」こそが救いの「目的」だという「悪人正機」の教えに行きつくわけなんです。
そして、仏教を学ぶことで満足する生き方ができるかというと、おそらくできると思います。それは「不満足の心」という名の「苦」をこれ以上大きくしなければよいのです。その方法としては、「少欲知足」という考え方を養うことだと思います。「欲を少なくして足るを知る」ということです。要は、すでに自分に与えられているもの、備わっているものに感謝していくということです。・・・
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悩み4 どうすれば、やりたいことが見つかる?
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仏教の答え 自分への問いかけを持ち続ける
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大來 まず、仏教的な観点から、「選択」という言葉を紹介したいと思います。「選択」は、一般的には「せんたく」と読み、たくさんある中から一つを選び取ることを意味すると思います。しかし、仏教用語としては「せんじゃく」もしくは「せんちゃく」と読み、不必要なものをはぎ落して大切なものが残るという意味になります。私はこの仏教用語としての「選択」の意味を受け取ってほしいと思うのです。
要は、今から限定して物事に取り組むのではなく、様々なことにチャレンジしていいと思うんです。それで、もし違うなと思ったら、また別のことに取り組んでみる。これを繰り返していくことも大切なのではないでしょうか。様々な経験をした結果、不必要なものが剝ぎ落され、必要なものだけが絞られてきます。言い換えれば、淘汰されるという感覚でしょうか。そして最終的に残ったものこそが、自分にとって大事なものなのではないかと、私は考えています。
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悩み5 共感力のある人間らしい生き方って?
自分の情の薄さが気になっています。他人の気持ちや感情があまりわからず、共感したり合わせることが苦手です。こんな私は非人間的に思えてしまいます。どうしたら人間らしく生きられるでしょうか。
哲学の答え あまり求めすぎないほうがいい
小川 人間には、個人であると同時に共同体の生き物であるという、両方の要素が備わっていると思います。個人であり共同体の一員であるというのは、常にその間を揺れ動いているような感じがするんですね。だから、人と合わせることができる時もあれば、それができない、あるいは嫌だなと思うこともある。その間を揺れ動いているだけなのだから、別に大丈夫じゃないかなと思います。この質問されている方が非人間的だなどとは思わないです。逆に、それこそが人間的なのではないでしょうか。他者に共感してばかりいる人のほうが人間的ではないような気がします。
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・・・私がいつも参照するのは、スコットランド出身の道徳哲学者アダム・スミスの考えです。経済学者としても有名な人です。そのスミスが音楽用語を用いて言っているのは、「まったく同じ音、ユニゾンを求めてはならない」ということです。そうではなくて、コンコード、つまり響き合う和音みたいなものでいいじゃないかって言うんです。たしかにそれでいいんだったら、可能かなと思います。
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私たちはつい同音を求めてしまうから共感できないと言っているんですね。そんなものを目指したらできっこないです。ですから、共感できないと言っている人は、コンコードでいいと思えば楽になれるんじゃないかなと思うんです。さらにスミスを越えてもう一歩踏み込んで言うと、不協和音でもいいんじゃないかなという気もします。不協和音は耳障りがよくないかもしれませんが、考えてみたら、そういう音は世の中にいっぱい溢れているんですよね。たとえばノイズもそうです。私たちはそういうノイズの中で生きていて、実は、ノイズを取り去ったらすごく不気味な感じになるんです。だから、不協和音というのは、意外と自然なんじゃないでしょうか。それを私たちが受け入れるかどうかです。そういう状況が普通なんだと思えるかどうかだと思います。
大事なことは、私たちの周りのいろんな声に耳を傾けるということです。不協和音、変な音も含めてね。そうすることで、自然に私たちは共感していってるんだと思います。・・・
仏教の答え 無理に共感する必要はない
大來 仏教の立場から考えると、「そのままでよい」という一言だと思います。情が薄いことが悪いわけではありませんし、また感情があまりわからない、共感しにくいというのも悪いわけでもありません。非人間的かと問われたら、十分人間ですよ。人間は人間ですから、どれが人間で、どれが非人間かというのはないと思います。
人間らしく生きるというのは、自分が思うように伸び伸び生きることではないかと思うので、無理に共感して自分を締め付ける必要はないと思います。むしろ、共感しないほうが一緒にいて楽という方もいらっしゃると思うんですね。ただ、それでも何か気にしてしまうのであれば、仏教的な立場から一つ、唯識というものに生きてみることを提案したいと思います。
人間というのは、基本的には自分の人生経験に基づいて、物事の価値を見極めて判断しながら生きています。しかし、時として、世俗的なものに執拗に捕らわれて苦しんでしまうことがあります。たとえば、言葉、世間体、国籍、流行など。私たちは知らないうちに、こういったものにがんじがらめにされているというのもまた事実です。しかし、そもそも誰がそんなものを作ったり、価値を決めたりしたのでしょう。こういった目に見えない束縛という名の苦しみから解放を促すのが、唯識の思想なのです。
ただ、おそらく今回のような悩みを持つ方は、もう唯識に生きていらっしゃるのではないかなと思うんです。周囲のみんなが面白いと言うから、自分も面白いと言う必要はないのです。・・・何にも縛られずに、心地よく自由に生きていくほうがよっぽど人間らしいと思います。・・・
