ひんやり、甘味

ひんやり、甘味: おいしい文藝 (河出文庫)

 この遠藤周作や向田邦子さんの文章を読みながら、昭和の夏の暑さと今との違いを感じました。

 

 こちらは遠藤周作さんの麦茶

P126

 夏の暑い日の飲み物は結局、氷のように冷えた麦茶に尽きるようである。

 私はいわゆる色つきの清涼飲料水などを余り好まない。夏の日に喫茶店などに寄っても、私のほしいのは日本茶と、よく熱湯でしぼったタオルだけであり、いわゆる冷した珈琲、冷した紅茶はほしくない。

 それでは私が珈琲が嫌いかというと、そうではなく、かつて仏国に留学していたころは、市巷を漫歩する時はキャフェに寄り一碗の珈琲をすすって、路ゆく人々の顔や服装を観察することを何よりの楽しみとしていた。

 そしてまた私は現在の東京にうまい珈琲を飲ませる店が沢山あることを知っている。友人、安岡珍斎君はこの珈琲にかけては眼のない人である。彼はまず珈琲の陶器の光沢をながめ、仏国風に陶器のフィルトルを使い、芳香をふくんだ一滴一滴がさながら砂時計のように茶碗に落ちる間、しずかに桜の根っ子で作ったパイプをふかす人である。また世之介君はロンドン子の如く、日常生活に紅茶を欠かさない。一昨年ロシアに遊んだ私が彼のために、雪のモスクワから銀のサモワールを送ることを忘れなかったのもそのためである。

 世之介君はまず紅茶茶碗を両手にもち、しばらく掌の熱と紅茶の熱との通いをたのしんだ後、それを二、三枚のビスキュイと共に眼を細めつつ静かにすするのである。本当に紅茶の好きな人の仕草といえよう。

 ・・・

 私は夏は麦茶を飲む。それもよくよく、体の芯まで冷えるほど冷した麦茶を飲む。暑い日ざかりに、外から我が家に戻り、木綿のゆかたに着かえて、私は簾の下にすわり、庭から吹き入る風をたのしみつつ、熱い紅茶を息を吹きつつ飲む。それからしとどに汗の出たところで庭に打水をしてから今度は麦茶を飲む。これで暑さは奇妙に消えるのである。我が家は土用の日でも長火鉢に火は決してたやさず、鉄瓶は松風の音をいつもたてているので、熱い茶をすぐに飲めるのである。

 麦茶といえば私は一つの思い出をもっている。

 少年のころ、私は洛北の嵯峨野を愛し、休日、よく電車に乗って(私はそのころ阪神の西宮市にいた)京都に行き、嵯峨野を『平家物語』の一節を思いだしつつ歩いたのである。私はある夏の日、咽喉の乾きをおぼえながら、あの有名な落柿舎によった。そのころ落柿舎に訪う人の影もなく、開け放した家の中に柿の青葉の翳が青くうつり、一人の婆さまが針を動かしていた。

 私の求めに婆さまは竹を切った筒を運んでくれたが、その竹づつの中には、咽喉の痺れるように冷えた麦茶がなみなみと充たしてあって、その甘露な味は今日も忘れていない。

 

 こちらは、向田邦子さんの水羊羹

P144

 私は、テレビの脚本を書いて身すぎ世すぎをしている・・・が、脚本家というタイトルよりも、・・・水羊羹評論家というほうがふさわしいのではないかと思っております。・・・

 まず水羊羹の命は切口と角であります。

 宮本武蔵か眠狂四郎が、スパッと水を切ったらこうもなろうかというような鋭い切口と、それこそ手の切れそうなとがった角がなくては、水羊羹といえないのです。

 水羊羹は、桜の葉っぱの座ぶとんを敷いていますが、うす緑とうす墨色の取合せや、ほのかにうつる桜の匂いなどの効用のほかに、水羊羹を器に移すときのことも考えられているのです。つまり、下の桜のおザブを引っぱって移動させれば、水羊羹が崩れなくてもすむという、昔ながらの「おもんぱかり」があるのです。

 水羊羹は江戸っ子のお金と同じです。宵越しをさせてはいけません。傷みはしませんが、「しわ」が寄るのです。表面に水気が滲み出てしまって、水っぽくなります。水っぽい水羊羹はクリープを入れないコーヒーよりも始末に悪いのです。

 固い水羊羹。

 これも下品でいけません。色も黒すぎては困ります。

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 水羊羹は、ふたつ食べるものではありません。口あたりがいいものですから、つい手がのびかけますが、歯を食いしばって、一度にひとつで我慢しなくてはいけないのです。・・・

 心を静めて、香りの高い新茶を丁寧に入れます。私は水羊羹の季節になると白磁のそばちょくに、京根来の茶托を出します。水羊羹は、素朴な薩摩硝子の皿か小山岑一さん作の少しピンクを帯びた肌色に縁だけ甘い水色の和蘭陀手の取皿を使っています。

 ・・・

 ここまで神経を使ったのですから、ライティングにも気を配ろうじゃありませんか。蛍光灯の下で食べたのでは水羊羹が可哀そうです。

 すだれ越しの自然光か、せめて昔風の、少し黄色っぽい電灯の下で味わいたいものです。ついでに言えば、クーラーよりも、窓をあけて、自然の空気、自然の風の中で。

 ムード・ミュージックは何にしましょうか。

 私は、ミリー・ヴァーノンの「スプリング・イズ・ヒア」が一番合うように思います。この人は一九五〇年代に、たった一枚のレコードを残して、それ以来、生きているのか死んだのか全く消息の判らない美人の歌手ですが、冷たいような甘いような、けだるいような、なまぬくいような歌は、水羊羹にピッタリに思えます。クラシックにいきたい時は、ベロフの弾くドビュッシーのエスタンプ「版画」も悪くないかも知れませんね。

 水羊羹は気易くて人なつこいお菓子です。どこのお菓子屋さんにでも並んでいます。そのくせ、本当においしいのには、なかなかめぐり逢わないものです。

 私は、今のところ、「菊家」のが気に入っています。青山の紀ノ国屋から六本木の方へ歩いて三分ほど。右手の柳の木のある前の、小づくりな家です。

 粋な着物をゆったりと着こなした女主人が、特徴のあるハスキーな声で、行き届いた応対をしてくれます。この人の二人の息子さんが奥でお菓子を作っているのです。とてもセンスのあるいい腕で、生菓子も干菓子もみごとです。お茶会のある日など、ひる過ぎにゆくと売り切れということもあります。

 入って右手の緋毛氈をあしらった待合の椅子に腰かけて、「唐衣」や「結柳」と、それこそうす墨の美しい手で書かれた小さな紙の入った、干菓子を眺めているだけで、日本というのはいい国だなと思います。この字も、すてきな女主人の筆なのです。

 水羊羹が一年中あればいいという人もいますが、私はそうは思いません。水羊羹は冷し中華やアイスクリームとは違います。新茶の出る頃から店にならび、うちわを仕舞う頃にはひっそりと姿を消す、その短い命がいいのです。