30年前の本なので、登場する方々の写真が若くて驚きました。
こちらは萩尾望都さん
P130
「暴力のバックボーンって根が深いんだなって・・・人間は、生まれつき愛とか暴力とかを覚えているわけじゃなくて、やられたことをやり返すんだっていうのが、河合隼雄さんとか小此木啓吾さんの本を読んでても出てくるんですね。実は、私の母親がガミガミ言い続けるとても厳しい人で〝依頼とは怒鳴ることだ〟と思いながら育った感じがあるんです。それが嫌で、友人関係についてはトラブルを起こしたくないっていう感じできたんですけど、マンガ家になって(アシスタントで)人を使う立場になると、私と母の親子関係と非常に似ちゃうんですよ。たとえばベタの塗り忘れが出たときの対応っていうのが『ダメじゃない、ここ塗ってないじゃないの!』って、母と同じような口調になる(笑)。言いながらもう、それが嫌で」
・・・
「・・・困ってしまって、時々ほかのマンガ家のところへアシスタントに行って様子を見てみたんですが、別にガミガミ言わなくてもみんなちゃんとやってるわけです。それで〝こんなものの言い方があるのか〟と、ずいぶん学習しました。でも『ここ塗り忘れてるから、お願いします』って言えば済むってことを学ぶまで、1年ぐらいかかりましたね」
―それだけ母親が厳しいと、萩尾さんの抑圧も大きかったんでしょうね。
「本当に教育ママで、友達はいらない、クラブ活動も入っちゃダメ、教科書以外の本は読んではいけないと、やりたいことを片っ端から禁止されるので、やることに対して罪悪感が伴っちゃうんですよ。私の考えていること、感覚っていうのは間違ってるんだろうかと、ずいぶん考えました。でも、20歳のころヘッセをまとめて読み始めたときに、非常にシンクロする世界が書いてあったので〝こんなふうに考えてもいいんだ、ノーベル賞とった人も書いてるじゃないか〟と思ってほっとしたんです。ただ、じゃあ母にはどうして分かってもらえないのかな?ということに対するこだわりが、すごくあったんですね。それで、28歳ころから心理学の本を読み始めたら、それに対する解答みたいなものが次々と出てくるもので、非常に面白くて。のめり込んでいったんです」
こちらは、いとうせいこうさん
P176
「現実がものすごく苦しいとしますよね。四面楚歌におかれるとか、会社で失敗したとか。そうしてズタズタになった自我を、まるで自分の子供であるかのように『しょうがないなあ、お前も』って、包み込むようにして見ている、もう1個の自分の視線―つまり〝親の視線〟(超自我)がユーモアなんですよ。それはこの柄谷さんの『ヒューモアとしての唯物論』を読めばすぐわかる。要するにフロイト(の精神分析理論)なんですけどね。超自我が自我を貫通している態度を〝ヒューモア〟だと言ってる。たとえば、アル中のおやじがいたとして、止められた酒飲んでたりして『死ぬ前にちょっと飲んどこうと思って』とかって、ポロッと言ったときに、周りも思わず『しょうがないや』っていう感じになるじゃないですか。宗教以外に、死を超えるものって、僕はユーモアしかないと思うんです。だって、どうせ超えられないんだもの。有限と知りつつ、それを超える態度」
―ただ、極限状態でユーモアを持てるかどうかって、人間を選びますよね。
「ユーモアがわかる、ユーモラスにできる人っていうのは、非常に限定されてることをフロイトも言ってるらしいですね。傷ついてるだけで『オレは可哀相な人間なんだ』って、被害妄想で急に加害者になる人もいるわけでしょ。それを止めるのももう1個の自分ですよね。ただ、もう1個の自分だけになると『どうせ世の中に起こってることなんて……オレは死ぬだけだし』って、力のないアイロニー、皮肉的な態度になりますよね。そういうヤツも僕、大嫌いなわけ。ユーモラスなほど真面目な人とか、ユーモアを感じるほど辛い人とかさ、そういう人間はやっぱり荘厳だし、すごく好きなんです」
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「ユーモアってギャグだと思われてるでしょ。でも、ものすごく端的に、わざと大ざっぱに定義づけてしまうと、ギャグって人生に関係ないものって感じがする。ギャグは〝瞬間〟に関係があるわけでしょ。その場で行われる〝行為〟のことですよね。対して、ユーモアは人生に関係がある。つまり〝態度〟でしょ。気質というか、その人に備わっちゃってるものなんですよね。自分の人生に対してギャグが言えるのがユーモア。もちろん、僕はギャグもすごく好きだけれども、人間自体を見る場合には、やっぱりユーモアが大事な要素という気がするんです」
こちらは、大槻ケンヂさん
P192
「今、一番すごいのは、清水伯鳳さんですね。この人のことは『極限を生き抜く!』に詳しいんですが、経歴を簡単に言いますと、代々、国家のトップを護ってきた一子相伝のプロ・ボディ・ガード一家の17代目なんですよ。毛沢東までは中国にいたんだって。で、韓国に行って、日本に行って、地獄の修行をして―伯鳳さんは、お父さんとお祖父さんに教わったんだけど、お父さんは目の前で銃で撃ち抜かれて、お祖父さんは目の前で爆死したそうです―そのあと、足に焼けた五寸釘を刺す〝卒業試験〟というのを受けて〝闇部隊ブラック〟っていうのに入ったんですが、入るまでの3年間は自由なんですよ。で、なにしてたかっていうと、萩本欽一さんの付き人をやってた(笑)。その卒業試験が終わったあとに、テレビ観てたら欽ちゃんが出てて、伯鳳さんが笑ったんですって。それを見たお父さんが『お前、生まれて初めて笑ったな。今からあの人のところに行ってこい』って言ったんだって。伯鳳さん、今はボディ・ガードの仕事を引退されて、青山で道場やってますけどね。
この間、その伯鳳さんのお宅に行きまして、とても信じられない経歴だから、僕は『とてもこれは信じられない世界なんですが』って言ったのね。そうしたら『みなさんそう言うんですけれども、まあこのぐらいのことは中東とかに行けば当たり前の話で。私はそういう世界に生まれて、三十いくつまでずっといましたから、逆にみなさんが信じられないというのが信じられないんですよ』って言われちゃってね。その〝闇部隊ブラック〟という超法規的団体も、僕が『国家元首によって統括されてるのか?』と言ったら『そうじゃない』って。全世界にある有志によるものなんだって。シャレで『サンダーバードみたいなものですか?フリーメイソンですか?』って言ったの。そうしたらね。お付きの人と伯鳳さんがフッと目を合わせて『いや、知らないほうがいい』って言うの。なんだかわからない。わからないのが面白いんだけどね。とても信じられない話なんだけど、確かにすごいっていうところがUFO現象と同じなんですね」
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「いや、ほんとにね、マンガみたいな話なんですよ。この『空手の理』っていうのは、柳川昌弘さんという方が書いた本なんですけどね。・・・柳川さんっていうのは、幼いころにお手伝いさんに放り投げられちゃって、ほとんど目が見えなくなって。非常に苦しみながらも空手の先生になった方なんです。空手の先生であると同時に『全国霊能・心霊家名鑑』の中に、霊能心霊家として日本の100人のうちのひとりに挙げられてる人なんですよ。ほかに書いてる本が『般若心経の暗号』と『あなたにもオーラが見える』・・・っていう本でね。柳川さんは、ほとんど目が見えないことを、高校ぐらいまで誰にも言わなかったんだけど、もういいだろうっていうんで、身体障害者の認定を受けにいったんですって。ところが視力検査の表は見えないんだけど、霊能者だから適当に言ったら全部当たっちゃって。認定されなかったっていう、すごい人なんですよね」
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「・・・こういう武道・格闘技本を読んでると『ホンマかいな?』って話が次から次へと出てくるんですが、その人が弱いかっていうと、強いんですよ。でね、強くなればなるほど、みんな〝気〟とかって言葉を使いはじめるんですよ。・・・僕、オカルト好きだから、だいたいなんとなくはわかるんですよ。昔から目に見えない、測定できない、なんだかわからないパワーがあると。・・・
でも、単純に、武道・格闘技の本を読んでると力が湧くっていうのもありますね。・・・それで、柳川さんの結論っていうのは『過去は過ぎ去り、もうない。だから過ぎたことは考える必要はない。未来は未だ来らず、ない。だから未来のことを考える必要はない』っていうとこにいくんですけどね。まあ、非常に励まされましたね」
こちらは、京極夏彦さん
P214
「よく〝積んドク〟という言葉を使う人がいますが、ぼくにしてみればとんでもない話です。本は読むためにある。買ったら読む、読んだら買う。これがぼくの信念です。1日に最低1冊以上は読む。途中でやめずにとにかく読み通す。作家になるまではこれを続けてきました。もちろん、資料的な性格の本も全部読んでしまいます」
「ぼくは何かのために本を読むというのは本に対して失礼だと思うのですね。たとえば『この手の小説を書かれるのでしたら、さぞや勉強されたのでしょうね』などとよく尋ねられるのですが、そんなことは全然ない。『書くために読む』ことなんかあり得ないです。読むときは読むために読むわけで『読む』以外を目的とする読書は考えにくいです。・・・ですから一番困るのは巻末に掲載する参考文献の選択なわけです。吸収したことを吐き出すように書いているわけですから、ぼくの作品がぼくの過去の読書体験の影響下にあることは明白です。・・・だからといって『この作品』と断定することは難しい。参考文献といったら過去に読んだ本全部を挙げなければならなくなる。それはできない。・・・やむを得ず知恵を絞って何冊か選んで載せているのです。・・・」
「作家になってから、月に何冊も本が送られてくるようになりました。その中には今までまったく読んだことのない作家の方のご本や、初めて触れるジャンルの本もあります。自分で買おうと思ったもの以外の本が手元にある。そんな経験はしたことがありません。普通は処分される方が多いと聞きましたが、ぼくにはそれができない。自分のところに来た以上、これは読んであげなければいけない。愛情を注いであげなければいけない。そんな気持ちになってしまうのです。でも、送られてくる本は大変な数にのぼります。あっと言う間に増えていく。そばにあるのに読めない本がたまっていく。これはぼくにとって大きな屈辱です」
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「本を楽しめないという方は不幸だと思います。たとえプロットがまずかろうが、文章がヘタであろうが、内容が間違っていようが、装丁が失敗していようが、本になっている限り必ず酌むべきところはあるのです。そうでなかったら本にはなりません。・・・その本を〝いい本〟と思っている人が一人でもいる限り、そこを酌むべきだとぼくは思います。面白くないというのはそこが酌めない人でしょう。ぼくの場合は、もし読んで面白くない本があったりしたら、自分にそれを『読み取る力』が欠落していたのだと判断して逆に深く反省してしまいます。そもそもぼくは本を悪く言うこと自体が嫌いなんです。どんな名著であろうとも、けなそうと思えばいくらでもけなせるわけです。そういう姿勢で読むのではなく、良いところを見つけてやるようにしなければ読書は楽しめません。少なくともぼくはそういう接し方をしています。・・・」
