途中から、フィクションだということを忘れてました・・・こういう本は初めて読んだ気がします。。。
ネタバレを含んでしまいますが、印象に残ったところを書きとめておきます。
P28
あまり知られていませんが、心は筋肉でできています。半分嘘で、半分本当です。スポーツばかりやってきて頭を使わない(そんなわけない)人が「脳筋(脳まで筋肉)」と揶揄されるらしいですが、脳がガッチリ鍛えられた状況はかなり強い。良くも悪くもこの資本主義社会では有能な戦力となるでしょう。
さて、重要なのは「心は鍛えられる」という点です。反復運動で負荷をかけ、筋繊維を太くしていくように、心も太く強くすることができます。そして同様に、過剰なトレーニングが筋肉を損傷させてしまうように、精神的な負荷が上限を超えれば心を壊してしまうことにもなりかねない。その見極めは非常に困難です。自分では気づかないうちに限界をはるかに超えている(「はるかに」というのが重要です。少しだけ限界を超えていくことこそトレーニングの本質だからです)ということがしばしばあります。願わくは客観的に自分のことを見てくれる人がいてほしいところです。その人が「それ以上頑張ったら壊れちゃうよ」と言ったらドクターストップ。休暇をとるなり上司に無断で旅に出るなり、とにかくそこから逃げ出しましょう。・・・事実、私も入社半年ほど経った時に突然限界を感じ、東京タワーの足元にあった編集所から逃げ出し新幹線に飛び乗って京都に行ったことがあります。京都の石畳を歩いている時にやけに足裏が痛いなと思って見下ろすと、編集所のペラペラのスリッパのままだったのに驚いたりもしました。本当に限界だったのだろうなと今は思います。ちなみに、真夏だったのに革ジャンを着ていたので、体温調節もままならなくなっていたのでしょう。しかし、そんな状態からなんとか復活して今があります。どうにかなるものです。
さて、タフな心を作るためにもう一つ重要なことをお伝えします。「寝ろ」です。とにかく寝ること。これは絶対に軽視してほしくないと思っています。
筋肉に休息が必要なように、心にも休息が必要です。時にそれは映画を観たり、本を読んだり、旅に出たりといったいわゆるレクリエーションによって達成されることもあるでしょう。・・・
しかしそのレクリエーションも、基本的には十分な睡眠が取れた上でするべきです。・・・社会に出ると、本当にたくさんの人と関わります。不機嫌な人は、大体睡眠不足です。これは結構本当です。・・・
・・・
大体のことは眠れば解決します。・・・
P316
逮捕されてから一ヶ月だったか、二ヶ月だったかが経った頃、面会に来た男がいました。
私は透明の仕切り板の向こうで刑務官に促され着席するその男の姿を、ただ呆然と見つめていました。
男の名は橋下淳。ハッシーです。
なぜハッシーがここに来たのか、私にはよくわかりませんでした。私の逮捕に至る決定的な動画を週刊誌に渡したのはハッシーに違いありません。それなのにどうして。怒ることもできず、私はただ驚くばかりでした。
・・・
・・・ハッシーはようやく、その口を開きました。
「別人みたいですね」
笑っているのか嘆いているのかわからない表情でそう言います。
「そりゃ、こんな所にいたら変わるよ」
私は嘲るように返します。
「いや、そうじゃないです。カミデさんはもっと前にもう別人みたいになってました。逮捕され、昔のカミデさんに戻ってくれているかなと期待して今日は来たんですけど、ダメみたいです。今顔を見てわかりました。昔のカミデさんはここにはいません」
失礼しました、と言ってハッシーは席を立ちます。
「ちょっと待ってよ」私は彼を見上げるような格好で呼び止めます。
「わかるように言ってくれよ」
ハッシーはわずかに逡巡の表情を見せると、再び椅子に腰を下ろしました。
「カミデさん、自分が起こした事件のおかげで安楽死の議論が進めばいいとか思ってませんか?」
「まあ、それは実際そうだから」
「そうかもしれませんね。でも、だからといって伊野さんを殺したカミデさんが許されることは無いんです。それは別の話だと思うんです」
・・・
「カミデさんがよく言う正義って、何のことですか?」
その問いに、私はすぐには答えられずにいました。正義とは何か。
「先に僕が思ってることを話してみていいですか?」
私が「どうぞ」と言うと、ハッシーは一つ深い呼吸をして、言いたくないことを言わなければならない人間特有の表情でこう話すのでした。
「カミデさんにとっての正義っていうのは、自分を安全圏に置くための道具なんです。カミデさんは自分の欲望を満たすために、正義を使ってるだけです。その正義は誰かのためのものではありません。自分のためのものです。カミデさんがよく言っていたように、正義の形なんてどうにでも変わります。だからカミデさんは、いつも自分の都合のいいように正義を組み替えて使ってたんです。その結果がこれです」
ハッシーは丸めた拳でこつんとアクリル板を打ちました。
「法律の欠陥を取り上げて自分の犯罪を正当化するのは、つまらないコソ泥と一緒です。彼らは政治が悪い、社会が悪いと言って盗みを繰り返すんです。僕だって法律のせいで苦しい思いをしました。今でもしてます。結婚できないなんて正直いまだに意味がわかりません。でも、だからと言って犯罪をしていいなんてことにはならないんですよ。それは、僕の母親に手を上げた男を認めることになります。めちゃくちゃダサいですよそれは。どこに正義があるって言うんですか」
私はハッシーの目に捉えられながら、その話を聞いています。
「拘置所って鏡無いんですか?」
「無いよ」
「そうですか。カミデさん今、すごい顔してますよ。化け物みたいです。ご都合主義の正義に乗っ取られて心を失った化け物です」
彼の言っている言葉の意味はわかります。しかし、それが上手く入ってこないのです。
正義を使う?ご都合主義?化け物?
なんだか、逮捕されて辛いはずの人間に結構ひどいことを言うなあ―私はそんなようなことをぼんやり考えていました。するとハッシーの目から涙が一筋流れ落ちます。
「なんでハッシーが泣いてんの」
「カミデさんが泣いてるからですよ」
そう言われて初めて、私は自分の頬を涙が流れていることに気づきました。・・・そしてその時私は理解したのです。警察官がアパートの扉をノックした時のあの感覚の正体を。あれは深い安堵だった。・・・私はどこかでもう、誰かに止めてほしいと思っていたのかもしれません。このままいけば大変なことになると、どこかでわかっていたのかもしれない。けれど、結局間に合わなかった。私はいつの間にか化け物になってしまっていた。それで今、ここにいるのです。
「安田さんに会ってきましたよ」
私はそれに何と返したらいいのかわかりません。
「謝ってきました」
私はゆっくり頷きます。
「安田さん、言ってくれましたよ」
ハッシーはそう言うなり俯いて、体の中の何かを押し込めるように肩を振るわせています。なんて、安田さんはなんて言ったの?―そして彼は充血した目をぐっと私に向け、言いました。
「気にするなって。お互い、できること全部やったんだからって」
私はもう感情が溢れるのを止めることができず、アクリル板に額を押し付けるようにして体をなんとか支えながら、喉を引き攣らせて泣きじゃくりました。なんで、なんで―私の口はそのように動きましたが、言葉にはなりません。
ああ、私はあの時すでに道を踏み外していたんだ。
ハッシーは自分が図らずも加害者になってしまった可能性を思い至り、安田さんに謝りたいと心から願った。しかし、私はそれを止めた。謝罪には何の合理性もない、私たちが負った使命の遂行のために、苦しくても謝罪をするべきではないと、彼を言いくるめた。・・・
「本当に、申し訳ない」
私は嗚咽の間から何とか搾り出すようにそう言いました。私には大切にすべきものが何か、一つもわかっていなかった。・・・
ハッシーは震える肩で一つ深い息を吸い、ゆっくりと吐きます。
「でも、カミデさんには本当に感謝してます」
「うん」
「あなたのおかげで、ここまで来れたと思ってます」
「うん」
「だから、変わっていくあなたを放っておけなかった」
そう言うと、ハッシーはおうおうと声を上げて泣き崩れるのでした。
・・・
・・・
ところで、最近カミデ氏から手紙が届きました。彼は刑務所の中で自作ドキュメンタリーの構想を練っているそうで、出所したらすぐにでも撮影に入りたいと書いています。・・・
・・・その手紙の最後に、本書の読者諸氏に対するメッセージが収められていましたので、それをここに転載して終わりとさせていただきます。
ひとつだけ、どうか忘れないでほしい。
何よりも大切なのは心。
目の前の誰かの、あるいは隣の誰かの、
そして何より、あなた自身の心だということを。
