原田マハ、アートの達人に会いにいく

原田マハ、アートの達人に会いにいく(新潮文庫)

 いろんな方が登場して、知らなかった世界が広がっていました。

 

こちらは大原謙一郎さん

P81

原田 私は小学生の時、大原美術館でピカソを見てショックを受けるとともに、棟方志功版画館(現・工芸・東洋館の棟方志功展示室)も見て、棟方志功も大好きになっちゃったんです。当時、渥美清さんが棟方志功の役を演じる『おかしな夫婦』っていうテレビ番組があって。

大原 志功がすごいのは、この美術館に来た時にメモを残していて、シャヴァンヌはすばらしいけれど、ゴッホは弱いと書いてあった。後で、その作品がゴッホの贋作だったことがわかったんです。

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原田 これからも若手アーティストをサポートしていかれるんですよね。

大原 2013年に「オオハラコンテンポラリー」というグループ展をやったときは、50人の現代アーティストがあつまってくれました。・・・その若い子たちが、古いものもたくさんあるこの美術館でレジデンスやってくれるのはやはり意味があると思うんです。最初にレジデンスしてくださった津上みゆきさんというアーティストは、虎次郎の墓参りにまで行かれたんですけど、虎次郎のアトリエで制作していたら、バイオリンの音色が聴こえてきたって言うんです。虎次郎、バイオリンを熱心にやってたんですよ。ぞっとしました。来ちゃった(笑)。そうやって現代のアーティストたちは先人の仕事をけっこう大切にしているんですよね。私たちがよく知っている戦後のアーティストたちは、過去を全部捨てて、私はこれでいく!みたいな感じだったけれど、今は違うね。

 

こちらは美輪明宏さん

P107

美輪 ・・・江戸川乱歩さんの作品も、小学生の時に全部読んでいました。だから銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で歌っていた時に17代目勘三郎さんに江戸川乱歩さんを紹介された時は、すいすいお話できたんです。私は明智小五郎に憧れていたので、先生に「明智小五郎ってどんな人?」と訊いたら、「腕を切ったら青い血が出るような人だよ」と言われ、「冷静沈着で、どんなことがあっても感情的にならなくて、青い血が出るって素敵ですね」と返したんです。そうしたら「ふーん、そんなことがわかるのかい。おもしろい。じゃあ君の腕を切ったらどんな色の血が出るんだい?」と訊かれ、「七色の血が出ますよ」って言ったら、「おもしろいね。切ってみようか。おーい、包丁持って来い!」。馬鹿なボーイが本当に包丁を持ってきちゃったんで、「およしなさいまし。ここを切ったら七色の血から七色の虹が出て、お目が潰れますよ」って言いました。またおもしろがられて年齢を訊かれ、「16歳でその科白かい。へんな奴だな」と、以後、ファンになってずっと銀巴里に来てくださいました。

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 いろんなジャンルのアートを吸収して食べて、自分の細胞に、遺伝子にしちゃったところはありますね。日本舞踊やスペイン舞踊をやっていると、芝居をやるときに煙草を持つ手にしても、形のいい指というものがわかるんです。ですから、お風呂に入りながら指は丁寧にマッサージしています。身体をどう動かせばドレスが後ろに綺麗に流れるかなど、そういうものを全部計算して、技術的にどう動かせるかをずっと考えてきたんですよ。自分で肉体を錬磨してかわいがってあげると、応えてくれるものです。今も手には老人斑もないし、皺もないですよ。

 

こちらは鹿島茂さん

P114

原田 ・・・まず最初にお訊きしたいのは、先生がそもそもなぜフランス文学の研究をしようと思われたのか、ということです。

鹿島 じつはあまり深い理由はないんです。僕の実家は天保から続く酒屋なんですが、家族も人の出入りも多かった。それで、子供の頃から良い人か悪い人かを見分けるために、人の顔をよく観察していたんです。悪い奴は悪い顔をしてる。大学に入って専攻を選ぶ時に、最初は英文科か国文科にしようと思っていたんだけれど、説明会に来た先生の顔を見たら、こりゃダメだって思っちゃった。仏文の先生は全然知らないひとだったんだけど、この人はいい、これで決まり!と、それで仏文にしたんです。つまり顔で選んだ(笑)。

 

こちらはドナルド・キーンさん

P143

キーン 私はいま93歳ですけど、これまででもっとも幸福を感じているのが、現在です。日本で暮らせることが嬉しいし、数年前に養子を迎えましたが、非常に話が合うので楽しい。生まれ故郷のニューヨークにはもう住まいはないし、友人もほとんど亡くなってしまいました。私は東京人です。このあたりには小さな店がたくさん残っていて、よく行く鶏肉のお店があるのですが、そこのおばあさんはいつも私たちのために安くしてくれます。お金を負けてもらったことではなく、その気持ちがとても嬉しいです。

 

こちらは冷泉貴実子さん

冷泉 今は和歌を詠むのが珍しいことになってしまっているけど、江戸時代の終わりぐらいまでは、ある階層の人々にとっての教養として、ごく普通のことだったと思います。たとえば「梅」といえば「梅が香」「梅が枝」「雪より咲く」という言葉が出てくるのが常識だった。独創的なものを必死になって生み出すというより、生活の中でごく自然に一つの美を自分の周りに構築するという、簡単なことやった。お花を生けることが生活の中での普通の仕事であるのと同じように、何も構えたことではなかったんです。

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原田 ・・・お生まれになったのはこの家ですか?

冷泉 そうです。ここで私が生まれたのは戦後すぐ。・・・

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 この家は京都御所から近くて固定資産税が高い場所で、さらに戦後すぐには財産税という税金があって、両親はほんとうに苦労しました。国には古いものを護ろうという気概が全然なかった。母は晩年になっても思い出して泣いてましたけど、徴税官が土足で上がり込んできて、「払えへんのやったら売ればいいやないか」と言われたそうです。こんな広いところに数人で住んでいること自体が間違っている、という考え方の時代が長かった。だから御文庫にあった古書以外のこの家のものは、たくさん流出しました。サラリーマンだった父親のボーナスは税金で全部持っていかれるし、屋根の修理や植木の剪定にもお金がかかった。それでいよいよ父が退職したらこの家を処分せなあかんとなった。相続税を計算してみたらもう、何十億という額で、とても払える金額じゃなかったんです。ちょうど裏手の同志社が拡張期だったので、土地を売らへんかという話が来ていました。それを京都府が聞きつけて、この屋敷を重要文化財にするという話が出てきたのです。じっさい、府の文化財保護課が調査した後、即、これは重要文化財にさせてもらえませんか、と言われました。そして今度は所蔵する古書に学術調査が入ったんです。それが忘れもしない昭和55年(1980)4月。その時、朝日新聞の記者さんが学者さんたちに同行していて、写真を撮って帰られた。・・・ある朝起きてびっくりしたの。一面トップで大ニュースになっててね。

原田 お宝発見!藤原定家の真筆があるぞ、と。

冷泉 突撃レポーターはやってくる、ヘリは上空を旋回する。朝日新聞の記事の書き方がよかったんでしょうね。よくぞこれまで護ってくれた、これぞ日本の宝や、という論調で紹介してくれた。それから急に、・・・文化庁が重文に指定するという方向になったら、基金が集まって、1年で財団法人ができたんですよ。・・・

 

こちらはリシャール・コラスさん

原田 コラスさんの小説には日本語、フランス語、両方で書かれたものがありますが、日本語はコラスさんにとってどんな言葉ですか?

コラス 言葉というのはお互いを理解しあうための手段ですけど、日本語だけが世界で唯一、お互いを理解しないためにできた言葉だと思っています(笑)。非常に多くのニュアンスを含んでいる。フランスからこちらへ若い人が来る時はいつも、日本で「はい」と言われたからといって安心してはいけない、そこからいろんな問題が始まるんだよと言っています。日本語は構造的、文法的にはけっして難しくないのですが、日本人の頭の中が難しい。長い歴史のある島国で育まれてきたもので、私は未だに理解できていません。(日本人の)妻と一緒にもう何十年と暮らしてきているのに、まだまだわからないことだらけです。

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原田 本当にお忙しいと思いますけど、コラスさんの人生に書くという行為があって本当に人生のプラスになったんじゃないでしょうか。

コラス 私はそう思うけど、社員は恥ずかしいと思っているかもね(笑)。・・・私の母親は、小説に書かれていることはすべて本当のことだと信じています。

原田 私の母も、私の小説を読むと「あなた、こんなことがあったのにどうして教えてくれなかったの?」って言います。でも文学賞の選考委員の方に「原田マハさんにはこれからも華麗な嘘をついていただきたい」と言われた時は、嬉しかったです。私はいつもフィクションとノンフィクションを混ぜて書いているので、虚実皮膜で、どこまでが嘘でどこからが本当かわからないとよく言われます。最新刊の『アノニム』では、ジャクソン・ポロックの未発表作品が見つかったというとんでもない嘘を書いたのですが、そうしたら先日、アメリカのとあるガレージでポロックの未発表作品が見つかったというニュースが入ってきて、編集者に「マハさん知ってたんですか?」って言われました。まったくの偶然ですが。

 

こちらは谷川俊太郎さん

P302

原田 私はずっと詩人に憧れつつも、世界で一番なるのが難しい職業だと思っていました。漫画家か画家か詩人になりたかったのですが、結局、そのどれにもなっていません。宮沢賢治が大好きで、宮沢賢治と結婚するのが夢でした。

谷川 僕はベートーヴェンの下僕になるのが夢だったんだ。中学1~2年の頃、ベートーヴェンに夢中でね。

原田 音楽も含め、美術や文学など広い意味でのアートに触れた最初のきっかけはどういうものだったのでしょう。

谷川 なにしろ父(谷川徹三)が大学の哲学の先生で、すごく美術が好きで、古いものなどを集めていた。だから毎日使う皿や小鉢なんかにも、ちょっといいものがあったりして、知らず知らずのうちにそういうきれいなものを見るのが好きな子になっていたとは思います。それから、自分で嫌いなものははっきり嫌い、とわかるような子供ではあったね。

 ただ、僕はわりと目の人じゃなくて、耳の人なんです。うちは父が目の人、母が耳の人。母はピアノが上手くてね。だから最初に目覚めたアートは、音楽です。・・・

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 ・・・僕も今はその頃の父と同じぐらいの歳になってきたから、音楽を聴くのは年寄りにとってすごくいいということがわかってきました。意味のあるものは嫌になるの。だからあまり言葉は読めないんだけど、音楽は意味がないでしょう?それがすごく好きです。それと自然にも意味がないから、自然もいい。・・・