父のビスコ

父のビスコ (小学館文庫)

 平松洋子さんのエッセイを読みました。

 

P238

 二〇一八年、西日本豪雨が真備町地区にもたらした被害は、土地全体の四分の一にあたる約千二百ヘクタールの冠水・・・

 ・・・

 三、四十分ほどあたりを走るうち、現実と想像のあいだに横たわる距離が、きしみ合いながらも、わずかに縮む。・・・家を追われた住人の方々はいまどこにいるのだろう。ぶじに避難されたのだろうか。この炎天下、寝るところ、食べるもの、着るもの、生活に必要なものは足りているのだろうか。

「ひとまず各地域の小学校や公民館で避難生活を送っていらっしゃいます。民間の炊きだしも組織されていて、それぞれにできることを、とみんなで手分けして動いていますよ。洋子さん、関係者に話を聞かれますか」

 ・・・

 夕方五時過ぎ。八月の山あいの路肩に、いかにも唐突な光景が現れている。

 手ぎわよく設営されたテントの下、白いテーブルクロスのかかった長テーブル。風に乗ってぷうんと漂うデミグラスソースの芳しい香り。・・・

 ・・・

 ・・・今日は、市内の美観地区の顔のひとつ、倉敷国際ホテルによる炊きだしの日だ。・・・炊きだしをおこなうとき、行政との連携のあるなしにかかわらず、ボランティアの大半はあらかじめ避難所の人数や状況を想定、それにふさわしい量と数を用意し、配り終えるとすみやかに撤収する。あらかじめ関係者に話を聞くと、「自分たちにできることを、できる範囲で」という約束が、暗黙のうちに遵守されているようだった。・・・

 ・・・

 今夜の献立はハヤシライス、アイスクリーム、フローズンフルーツ。厨房のままのコックコートを着たシェフたちは温かいルーをレードルですくってよそい、用意した四百人分のランチボックスが着々と手渡されてゆく。

 子ども二人の手を引いてやってきた三十代のお母さんが言う。

「温かい食べ物がうれしいんですよね。どうしても毎日似たものを食べているから、ホテルのハヤシライスなんて夢みたい」

 おずおずとおじいさんが訊いている。

「うちは五人家族だから五人分もらえるかのう。わしひとりが来たのに、そんなにもらってええんかどうか……足りなくなることはない?」

「たっぷり用意してありますから、どうぞどうぞ遠慮なさらずに」

 ありがとうありがとうと繰り返し、家族五人分のランチボックスを入れた紙袋を両手に提げて山のほうへ帰ってゆく。煮炊きができない住民のために、朝はおにぎりとパン、昼は仕出し弁当が市から支給されているのだが、炊きだしの対象について路肩にこんな貼り紙があった。

「①避難所で生活している方

 ②ご自宅で寝起きしているが 台所が使えないなど日常生活ができない方」

 なぜわざわざ明示されているのだろう。訝しく思い、世話役のひとに貼り紙の意味を訊いてみると、

「被災して不自由な暮らしを強いられていても、自分は家に住めるだけ恵まれている、炊きだしまで援助してもらったら申し訳ないと思うかたがいらっしゃるんです。遠慮せず気軽に来てくださいという意味なんです」

 そうだったのか。日常を奪われてなお、住めるだけ恵まれているから気が引けるという当事者の繊細な心境を、すぐに推し量ることができなかった。

 ・・・

 べつの日の夜。市内十四の避難所のひとつ、真備の船穂小学校体育館・・・にうかがった。・・・入り口で靴を脱いでビニールのスリッパに履き替え、体育館の床に立った瞬間、とっさに浮かんだ言葉は「私はなにもわかっていなかった」。体育館の床の硬さをつうじて足裏から伝わってくる冷え冷えとした感覚。煌々とまぶしい大きな蛍光灯。ひと目を避けて干す洗濯物。段ボールの間仕切り。・・・

 七月七日に避難してから一ヶ月以上ここに暮らしているという、八十歳と八十四歳の女性と言葉を交わす機会があった。

「この方ね、あたしより四歳年上。着の身着のまま、ボートで救出されたの」

「そうなの、ここに来たときは裸足でびしょぬれでした。何も持ち出せなかったから着替える服も一枚もないでしょう、避難所に届いた寄付のなかから着させていただいてます。今日も炊きだしに来てくださって、本当にありがたいことです」

 銀髪の小さな老女が焦りも憤りも洗い落としたような穏やかな口調で、しきりに感謝の言葉だけを発することにひどく心を動かされていた。

「きのうはね、美容院の方がここに来てシャンプーしてくださったんですよ、うれしかった」

 今日の夕食の炊き出しを担うのは、美観地区の老舗旅館「旅館くらしき」。・・・献立はちらし寿司、冷そば、具だくさんの熱い豚汁。・・・

 おいとまするとき、さきほどの女性に「どうかお元気で」と挨拶した。ちらし寿司、いかがでしたか、と私。

「味がね、やっぱり違うと思いましたよ。酢飯はほっとするし、ぬくうてね、本当にありがたかった」・・・

 

P282

 数年前、母が手文庫にしまっている一枚の古い紙を見せてもらう機会があった。天台宗の僧侶の名鑑からコピーしたらしい一ページは、祖父の写真と氏名からはじまっている。

 ・・・

 時間の流れに沿いながら一字一字を腹に収めるようにして読んでゆくと、ひとりの僧侶の足跡がゆっくりと浮かび上がってくる。叡山学院(比叡山に行ったとき、何度か入り口の前を通ったことがある)を卒業したのは二十二歳。住職を拝命したのは弱冠二十六歳だった……足跡をたどり直すことは、もうこの世にいないひととの関係を結び直すことだとあらためて知る。

 社会歴の項の三行に、目が釘づけになった。

 

【社会歴】

 昭和十九年教育召集、中部四八部隊人見隊。

 昭和十九年臨時召集北支派遣鷺三九一一部隊河原隊。

 昭和二二年復員、博多港。

 

 三十五歳の住職に赤紙がやってきたのである。

 三年間の従軍ののち、博多港を経由してフィリピンから帰還。あとに残された家族五人、お父さんが生きているのかどうかもわからない三年間はほんとうにつらかった、と母からよく聞いていた。

 その日の記憶を語る母はいつも切羽詰まった声になる。

「戦地からもどってきた歩兵隊が今日あのへんを通るらしい、と檀家さんから連絡があって、私と郁ちゃんを連れてお母さんが市内に向かったわけ。道の脇に立って、大勢のひとといっしょに歩兵隊が通るのを、いまかいまかと待っていると、ざっざっざっと音が聞こえて兵隊さんの隊列がやってきた。お母さんが、お父さんを見つけようと必死の形相で首を伸ばしている。まだいない、まだ通らない、『あっ』とお母さんの声がしたと思ったらものすごい勢いで走り出すから、手を握っていた私と郁ちゃんも引きずられながら一生懸命走った。隊列のなかにお父さんを見つけると、お母さんは、行進しているお父さんの肩から水筒をひったくって、その横をいっしょに走りながら中身をざーっと路上に捨てて、持って来たお酒を、こう、水筒のなかに注ぎ入れてまた肩に掛けて渡したんよ。あのときのお母さんの顔が忘れられない」

 清めの酒、祝いのしるしだったのだろう。

 四人の子どもたちに、家に帰って言ったそうだ。

「お父さんが無事に生きて帰ってきてくれた。ご本尊さまのおかげ」

 祖父の来歴を記した古いコピーの日付をあらためて眺める。

 

【生年・月日】

 明治四十二年二月二十一日

 

 四十九年後、祖父が生まれたおなじ日に、私は生まれた。