すみれの花、また咲く頃 タカラジェンヌのセカンドキャリア

すみれの花、また咲く頃―タカラジェンヌのセカンドキャリア―

 宝塚を卒業した9名の方へのインタビュー、みなさんの姿勢、考え方など、素敵だったり面白かったり、あっという間に読んでしまいました。

 

こちらは雪組男役だった香綾しずるさん。

P66

「私、宝塚をやめたらやりたいことがあるんです」

 そう、彼女が話し始めたのは、宝塚を卒業する公演の楽屋でのことだった。・・・

 注目されるなか、彼女はおもむろに口を開いた。

「スパイダーマンになりたい」

 あの時、彼女を取り囲んだ人々が一瞬で解散した光景は、今でも忘れられない。

 

「私、そんなこと言ってました?全然覚えてないなー」

 とぼけているのではない、全開の笑顔で無邪気にそう答える彼女。それはまさしく予想通りの答えだったから、私は驚かなかった。

「きっと……海外に関係したお仕事がしたかったから、スパイダーマンって言ったんですよ。ほら……『人との繋がり』みたいな。ね⁉」

 当時の自分のよくわからない発言をどうにかしようとしている。真顔で説明されるが、やはりいまいち理解不能だ。自由自在に活躍する己の姿を、スパイダーマンというヒーローに重ねていたのだろうか。

「私、スパイダーマンの映画は見たことないんですけどね。なんでそんなこと言ったんだろう、ね?」

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 歌、ダンス、お芝居となんでも巧みにこなす香綾さんに、ミュージカルや舞台への出演など、卒業後の華やかな活動を期待したファンも多かった。しかし、彼女が選んだのは、元タカラジェンヌとしては異色といえる道だった。

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「宝塚を退団したのが、7月。その後すぐに、『ベトナムの日本語学校で教えてみない?』と知人から声をかけてもらい、10月には母と一緒に現地を見に行きました。それで、もうその翌月から1人でベトナムに住み始めたんです」

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 一度現地を見たとはいえ、「ベトナムの日本語学校で講師をする」という、かなりざっくりとした仕事内容を聞いただけで渡航を決め、現地で生徒となる「ベトナム人技能実習生」が何なのかということすら後から知った。英語圏外へ行くにあたり、渡航までに覚えたベトナム語は挨拶と数字程度。

「不安よりも、楽しみが勝っていました。面白そうだからとにかく行ってみよう!って」

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 香綾さんが約1年間勤めたベトナムの首都・ハノイにある日本語学校は、日本アジア青年交流協会が直接運営しており、日本で働くことを希望し就職が決まったベトナム人が学んでいる。ここでは技能実習生を単なる働き手にする教育だけではなく、彼らの生活や学びを長期的に支えるための活動をしている。

 海外の人と比べると、日本人は突出して几帳面で清潔好きだ。さらに職場では時間を厳守すること、礼儀正しい挨拶などが求められる。ベトナム人の生活とは違うことばかりだ。

 学校で働き出した香綾さんはすぐに、語学の習得だけではなく、そもそも日本で暮らすための準備が充分ではないことに気が付いた。

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 技能実習生を受け入れる日本の企業のため、そして何より生徒たち自身が日本で自立し安心して生活を送れるようにと奮起した香綾さんは、学校の改革に乗り出した。

 彼女が最初に取り組んだのは、掃除の指導。朝だけだった掃除の時間を、昼と放課後にも増やして、全クラスを見回ってやり方を教えた。

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 掃除だけではなく、挨拶の仕方や整理整頓、団体行動といった生活全般の指導には、宝塚で学んだことが大いに役立った。

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 思いついたら即、実行。香綾さんは現地スタッフにも教え方を伝授して、学校の指導体制を整えていった。赴任当時は10人ほどだった全校生徒は、130人にまで増えたという。・・・

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 そのように日常の細かいところからコツコツと改革を続けた香綾さんは、ベトナムに渡ってわずか半年後、現地の副校長に就任する。ベトナム人にとっては不慣れで厳しい規則が増やされたが、戸惑いや反発の声が上がることはなかった。・・・

「ただ規則で縛るのではなく、協力して楽しくできるように工夫しました。つまんないと、続かないからね」

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「海外へ行っていろんな人を知ると、日本の良い部分も悪い部分も分かる。たくさんの経験をして、視野を広げたかったんですね、私。スパイダーマンにはならなかったけど」

 その言葉通り、香綾さんが語ってくれるのは紛れもない実体験だった。頭で考えるよりも、とにかく行動にうつす。人伝の知識に頼らず、なんでも体験する。そこから物事を理解し、自分にできることを実行していく。簡単なようで、なかなか実践できるものではない。

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 母に「一回だけで良いから」と頼み込まれ、宝塚音楽学校を受験した。結果は、見事一発合格。まさか受かると思っていなかった彼女の喜びは、他の合格者とはまるで違っていた。

「これで春休みの宿題をやらなくていい!やった~~~‼」

 勉強から解放されたかわりに、厳しい上下関係と芸事のお稽古でがんじがらめの日々が始まった。その過酷さに音を上げ、毎日泣き暮らす生徒も少なくないのだが、

「音楽学校での2年間はすごく楽しかったです。あの、すべてに追い詰められてる感じが!」

 ここでも人並み外れた適応力を見せつけ、4番という好成績で宝塚歌劇団に入団、初舞台を経て雪組に配属された。

 卒業した今だからこそ語ることができる本音がある。

「宝塚の舞台に、夢中で憧れてはいなかったんです。だから初舞台も、あんまり感動しなかった」

 華やかな雰囲気に酔いしれて、感激に浸る……そんな初舞台生ならではのうっとりとした瞬間があるものだが、香綾さんはその遥か先を、シビアな眼で見据えていた。

「宝塚に入ったからには、自分のやるべきことをやる。与えられた役はとことん追求するし、芸事の技術を少しでも上げたかった」

 実際、香綾さんは実に堂々とした下級生だった。・・・「態度が大きい!」と叱られても、舞台に立てばどんなに端っこでも活躍して上級生を黙らせた。ベテランでも冷や汗をかくほど緊張感のある場面も、香綾さんはひょうひょうとやり遂げてみせた。

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「私、全く緊張しないの。いつも楽しくてしょうがない。みんな、見てくれ~!って」

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 他人のあり方にとらわれず、淡々とやるべきことを重ねてきた香綾さん。・・・

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 ・・・新人公演主演を見事に果たしたこの時、彼女の心の中は、誰も想像し得ない思いが生まれていた。

「私、真ん中は向いてない―そう思いました」

 誰よりも豪華な衣装で眩しいライトを浴びることは、香綾さんにとって重要ではなかった。

「新人公演の主演から、少しずつ違和感を覚え始めました。スターになるよりも、私にしかできない役をやりたいなって」

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「学年が上がっても日々のレッスンは欠かしませんでした。もっとできる、もっと上手くならねばと、常に自分自身に課していたような気がする」

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「自分自身に厳しいのは、性格ですね!でも、納得いくまで突き詰めたいだけで、無理してやってたわけじゃない。その結果、下級生が私の努力を認めてくれていたなら、嬉しいですね。やるべきことをやらない上級生には、誰も付いて来ないから」

 香綾さんが皆から慕われていたのには、他にも理由があった。厳格な実力派でありながら、常にユーモアを忘れない。・・・

 舞台袖では出番ぎりぎりまで全力で変な踊りをおどり、忙しい早変わりの合間でも一発芸を欠かさない。暇さえあればふざけているのに、一歩舞台に出れば完璧な演技を見せる……彼女のそんな一面に、生徒だけでなくスタッフの皆さんも魅了されていた(たまにやり過ぎて、叱られることもあったが)。

「誰かが見ていてくれる限り、私は必ず何かをする」。一流スターの名言かと思いきや、舞台袖や楽屋での悪ふざけについてのコメントだ。

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 様々なお話を聞く中で、彼女が唯一「苦手です」と語ったことがあった。

「役の生い立ちや性格の設定を決めること。私は、全然できなかった。これがきちんとできる人を、本当にすごいと思っていました」

 それでも、お芝居が巧い。・・・

 宝塚の作品は歴史的な事柄を扱ったものが多く、役を膨らませるためにその人物が生きた時代や国について研究し、役のプロフィールを細かく設定する人は多いのだが、

「時代背景は調べない。そういうことに、興味がないんですよ、結局」

 香綾さんはいつも、手渡された一冊の台本から人物を作り出していた。直感を大切に、演じる人物をどれだけ作中で活かせるか。そんなふうに、お芝居に挑戦していた。

「私は自分の役について質問されると適当に答えちゃうし、舞台に出たら設定なんて全部忘れて感覚だけ。なんにも考えられないんです」

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 宝塚時代から、香綾さんがよく言っていた言葉が「継続は力なり」だ。・・・

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「ベトナムで日本語を教えていた生徒が、今は日本で立派に働いている。そういう姿を見るとやっぱり継続は力なり、と思いますね」

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「今のお仕事も楽しいですよ。楽しくないと、続けられないもん」

 彼女は、「継続は力なり」を全力で楽しんでいる。同じことの繰り返しにも好奇心を光らせ、いつも何かに興味を惹かれているのだ。

「辛いことがあっても、寝たら忘れる。なんとかなる!と思えるので、引きずらないんです」

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「まだまだ、視野を広げたい。たくさんの人と関わりたいし、楽しみたいな」

「生きるって、楽しいですよ」

 取材の最後に放たれたこの言葉は、ありふれた飾りではない。そしてまた、深い意味もない。本人曰く「特に何も考えていない」。

 香綾さんは、生きることを楽しむ才能に溢れている。