「すべてを引き受ける」という思想

「すべてを引き受ける」という思想 (知恵の森文庫 t よ 5-1)

 どこまで理解できたかわかりませんが、吉本隆明さんがどういう立ち位置にいようとされていたのか、少し感じることができたような気がします。

 

P29

吉本 「往き」の目と「還り」の目

 ぼくは中世の宗教家の親鸞が好きで、ずいぶん影響を受けていますけれども、・・・

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 往きがけに、偶然そこで一杯のかけそばを分け合って食べている親子を見かけて感動した、あるいは同情したというのは偶然性を契機にしてつくり上げられた倫理であって、いってみれば往きがけの倫理だ。そういう親子に同情したり感動したりしたとしても、それは万人に対する感動や倫理を象徴しているわけではないから、あまり意味はないんだと、そんなふうに親鸞は思い切ったことをいっています。

 しかし、一杯のかけそばを親子で食べている光景を還りがけの目で見ることができるならば、その光景を見ただけで万人の救済の方法を摑むことができるといいます。親鸞は仏教者ですから「救済」ということを考えているわけですが、一組の親子の姿を見ることは多くの困っている親子が一杯のかけそばを分け合って食っているのを見るのと同じことであるのだから、一組の親子を見ただけで、こういう状態を救済するにはどうしたらいいかということまで考えが及ぶ、というわけです。

 これを敷衍していえば、往きがけに飢えた人がいるのを見て、その人を助けたか、助けないまま通りすぎてしまったか、そんなことはたいした問題ではないという。親鸞はそこまで言い切っていますね。その親子を助けるか助けないかは、そのときの気分次第でいかように振る舞ってもいいし、また振る舞える。それは善悪の問題とか倫理の問題、つまりは救済の問題ではないんだといっています。

 救済の問題というのはそういうことではなくて、ある地点まで行ってそこから還ってきた、そういう目で見ることだといっています。そういう目で見られるならば、ひとつの光景を見ただけで、そういう人たち全体を見渡すことができるし、どうすれば救済が可能かという考え方もおのずから出てくるものだといいます。それが還りの目だと、親鸞はそういう言い方をしています。徹底的にそういっています。

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 このあたりの「往きの目」(往相)と「還りの目」(還相)ということは、知識を例にとっていえば、知識を追究していって世界思想の最高水準まで到達するのが「往相」です。しかし真の意味で知識を全体性として獲得するというのは、知識を獲得することが同時に反=知識、非=知識、不=知識を包括することでなくてはならない。親鸞はそれを「還相」と呼んでいるわけです。

 そういう考え方はとてもいいんじゃないかと、ぼくは思います。

 

P40

吉本 安藤昌益の「天然自然観」

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 日本の思想家でいえば、徳川時代中期に安藤昌益という人がいます。・・・安藤昌益は、儒教でいう聖人君子や仏教でいうお釈迦さま、キリスト教のキリストやイスラム教のマホメット、そういう聖人たちをみなクソミソに批判しています。どういうところで批判しているかというと、この人たちは、すでに人間社会の善悪というものと天然自然の自然とが結びついているような場面からしか、自分の宗教思想を展開していないという点です。

 つまり、天然自然あるいは宇宙のなりゆきの根本は何かといったら、善悪などと全然結びつかないところにあるはずで、善も悪も何もないのが宇宙であり自然ではないか。したがって、宇宙はある場合には悪に当面して悪を表現するし、善なる倫理に当面して善を表現する。それが天然自然であるのに、・・・宗教は、倫理的に善だけ選ぼうという意識ではじまっている。・・・

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 ・・・彼が見事なのは、聖人君子が出たのは人間が堕落しはじめたときだと指摘しているところです。宇宙というのは善悪両面あって、善悪両方ふくまれているのが天然自然なのに、そこから善だけを取り出そうとしたとき、時代はすでに悪をなしはじめているといっています。そういう観点に立って、釈迦とか孔子とか、エライ人たちをみなクソミソにやっつけています。

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 ・・・聖人君子以前の人類の状態に言及して、天然自然と倫理・善悪ということを考えた日本人はこの人だけだと思います。・・・

 

P154

吉本 異質なものとしての知

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 専門的なことに関わるときは厳密に、そうではないときはいい加減に、というのがいいと思っているわけですが、この点でも日本の科学者というか医学者はたいてい逆です。米国産牛肉の輸入問題の専門家会議なんか、これはもう科学者として厳密にやるべきところです。「数パーセントといえども狂牛病を発症させる危険性があるわけだから、いい加減な検査では通せない」といって拒否すべきところなのに、そういうときは科学者ではなく一般人になってしまって、滅多に発症するわけではないからいいじゃないですかなんていって、すっかり政治家の言いなりになってしまう。

 文章の校正でも、こんな経験があります。ぼくは同じ言葉でも漢字を使ったり平仮名にしたり、文章の流れのなかで使い分けているわけですが、校正者というのは何がなんでもひとつに統一したがる。厳密に、厳密にということなのでしょうが、そういうのは死んだ厳密さ、いのちを失った厳密さです。そういう厳密さで、「炭酸ガス」と書いたのを「二酸化炭素」と直されたことがあります。・・・

 こんなふうに、どうも逆じゃないかと思えることがとても多くなってきています。・・・

 

P174

吉本 学ぶときは直接原典に当たる

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 ・・・マルクスならマルクスを勉強するときは、ともかくマルクスの書いたものを直接読むことを心がけてきました。・・・わかってもわからなくても、とにかく直接本文に当たる。そして、わからないところが出てきたら、専門家に、ここはどういう意味ですかと聞くようにしてきました。

 その点でぼくが感心したマルクス主義者は、多くの人と違って、三浦つとむという人です。在野の哲学者で、類別していえば主体的唯物論の開拓者のひとりです。ぼくが、ここはどういう意味ですか、わからないんですが……と聞くと、三浦さんは即座に答えてくれた。それくらいマルクスをよく理解している人でした。

 ぼくは意地が悪いというか、マルクス主義者といわれている人にわざとこう聞いたことがあります。―ひとりの生粋の肉体労働者がいる。彼は肉体労働をしながら給料をもらって生活している。しかるにその人は、親父さんなりお祖父さんなりから受け継いだ家に住んでいて、しかも空いた部屋があるからそれを間貸ししている。そうすると、この人は労働者にしてブルジョワジーということになるけれども、これはどういうふうに考えればいいんですか、と。だれひとりとして満足に答えられる人はいませんでした。

 ところが三浦さんだけは即座に、「そんなことは現実的な社会ではよくあることですよ。矛盾でも何でもない。あるがままに考えればいいんじゃないですか。つまり、この人はプロレタリアートにしてブルジョワジーだと考えればいいんです」と答えました。即座にそういったのは三浦さんだけで、ほかの人はみな、「おまえはわざわざ矛盾をきたすようなことを見つけてきて……そういうのはよくないぞ」とか何とか、口ごもっていました。・・・三浦さんはマルクスをほんとうによく理解している人でした。