わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅

わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅 (シリーズ ケアをひらく)

 言葉にできること、言葉にしたくないこと、言葉にならないこと、とても難しいバランスをとりながら、よくこのように表現されたなと感じつつ読みました。

 

P34

 家族の病に向き合ったかつての子どもに会おうを思ったとき、最初に会いたい人がいた。・・・

 マナさんはクリエイターで、数か月前に彼女の作品を見に行った。・・・

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 何度かのメールのやりとりがあった。わたしはこちらが話をしたいと言っているのに家で待っているのは申し訳なく、駅まで迎えにいくつもりだった。わたしが駅まで行きます、いえ直接行きますと何度かの押し引きがあり、結局わたしが家で待っていることになった。その何度かの空疎なやりとりも、ヤングケアラー同士らしいと思えた。

 というのも、ヤングケアラーの一つの特徴は、自分の願望や欲望よりも先に病気の家族の願望を優先してしまい、しまいに自分が何を求めているのかわからなくなるということである、と常日頃思っているからだ。

 相手が何を求めているかを先に読み取り、先回りしてそれをまるで自分が願っていることのように感じているので、相手からしたら本音が見えず、何かの約束をとりつけるときに多少の困難をきたすことがある。わたしたちのメールのやりとりにもそれを感じ、わたしは彼女の好意をそれ以上深追いするのはやめ、家できちんと待っていることにした。

 

P60

 このテーマを追うようになってから、わたしは幼いころの記憶をよく思い出すようになっていた。新生児を抱えたわたしは年末年始、子どもたちと実家に長く泊まることにした。何か映画を選んでいいよと五歳の娘に伝えたら、映画『銀河鉄道の夜』のDVDを手に取った。

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 小学校五年のときに封切られ、夢中になったのを覚えている。だから子どもが生まれたときに、後に見せたいと思いDVDを買ってあったのだ。

 映画がはじまると、年初のまっさらな気持ちと、お正月という祭りの最中の流動的な心に『銀河鉄道の夜』がまっすぐに刺さってきた。

 ジョバンニの父親は船乗りで、どこか見知らぬ遠洋に出かけて数か月帰ってこない。それが理由でジョバンニは学校でいじめられている。お母さんは病気で伏せっていて、ジョバンニが学校から帰っても家は暗く、ベッドから話しかける声も弱々しい。

「姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこに置いて行ったよ」

 年の離れた姉さんには自分の家庭があるのだろう、時間をつくってかろうじてお料理をしに来ただけで、もう帰ってしまって家にはいない。ジョバンニは小さな食卓でひとり、姉さんがつくったトマトのシチューを食べはじめる。

 そのあたりからわたしの胸はキューッと痛みはじめた。

 学校から帰ってきたときの家の空気は、ドアを開けた瞬間にわかる。わたしは怖くて、いつも思い切りドアを開ける前に薄く開け、中の様子をうかがっていた。物音がすれば飛び上がるほど嬉しかったし、シーンと静かで死んだような空気が流れているときは、朝ひとりで出てきたときと同じ、止まってしまった時間に足を踏み入れるようで、悲しい気分の谷底に突き落とされた。

 お母さんは暗い部屋の、暗いベッドに寝ている。そこから聞こえてくる「おかえり」の声は、声というより息だ。

 ジョバンニにはまだ、お姉さんがつくってくれたシチューがあった。食事を自分で用意したり、店屋ものを頼むためにどこかに電話したりしなくてよかった。ただジョバンニはひとりテーブルに向かってそそくさと食べる。星の祭「ケンタウル祭」に行く前に、お母さんのためのミルクをもらいに行くと言って、牛乳瓶を持って走り出したジョバンニ。

 寂しい一本道を進む後ろ姿を見ながらわたしは思った。ジョバンニはヤングケアラーだったんだ。小さなころから親をケアするという意味において、ただしくヤングケアラーであった。そのことにはじめて気づいたのだ。

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 なぜわたしが小学校時代にこのアニメに夢中になったのか。小学生のわたしはジョバンニに自分を投影し、カムパネルラに憧れた。ああなりたい、人の幸せのためなら自分の命は燃やしても構わないと、わたしもそう言いたくてたまらなかったのだ。

 カムパネルラはいじめっ子のザネリが川に落ちたのを救おうと、自分も川に入りザネリを助ける。しかしカムパネルラは二度と水上に上がってこなかった。

 誰かのために自分ができることは限られている。痛みを代わってあげることはできない。それでもなお幼いわたしは、自分を、苦しそうな母のために燃やしたかった。

 カムパネルラに憧れたのだ。

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 ジョバンニがヤングケアラーだと気づいてから、宮沢賢治の作品はケア的土壌にあふれていると考えはじめた。

 馬車にひかれて怪我をした友人の指を「いたかべ、いたかべ」と言いながら吸って止血したという逸話が賢治にはあるが、人の痛みを自分のこととして感じることのできる特質は、<雨ニモマケズ>で「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」という感覚につながるのだろう。<永訣の朝>もまた、死に臨む妹の、生の最期の光をどうしてもこの手で守りたいという想いに貫かれていた。

 もうわたしも「ヤングケアラー」という言葉を普通につかえるようになってしまったし、この言葉をつかうことによる伝わりやすさを思い、あえて使用しているが、すでに述べたように最初にヤングケアラーという言葉を知ったときの驚きと戸惑いをよく覚えている。

 わたしの謎の多かった幼少期はそんな分類に入るのか、となぜか名前を与えられたことに寂しさをおぼえた。心理をたどるならば、わたしだけの孤独が、「ヤングケアラー」として類型的な感情なのだと規定されてしまう寂しさ、個別具体的だったわたしだけの孤独が、わたしたちの孤独になってしまう寂しさだったかもしれない。

 そしてこの寂しさは、自分の孤独と他人の孤独を比べることによる戸惑いと劣等感のようなものを、わたしに連れてきた。

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 わたしはいま、むしろヤングケアラーという名前があることに勇気づけられてもいる。名前が与えられ、その内部で体験の差別化が行われることで、問題はより詳細に分析されると思うからだ。・・・

 

P94

 わたしは夢中になって話していて、自分の内面を見つめるようにして、向かいの白壁をずっと眺めていた。・・・猪俣さんが

「中村さん、やめたら?連載やめたほうがいい」と言った。

 ・・・

 実はその言葉こそ、今日猪俣さんにここで言ってほしい言葉だったのかもしれない。・・・わたしはおずおずと白石さんの顔を見た。

中村「すみません、わたしは今日この場はそういうことになるのではないかと思っていたんです。ごめんなさい。連載は休止します」

 ・・・白石さんは苦虫をつぶしたような顔をして、「いつかは書いてくださいね。ぼくの定年までには、書いてくださいね」と言った。

 そして、かなり時が経った。こうしてまたわたしは、そのときのことを、ここで書いている。なぜかと説明する前に、わたしの傷と、言葉との関係について記したいと思う。

 言葉が消えていくかなたを見たい。言葉の消失点に触れたい。これはつねづね感じていることだ。そしてその思いは、世界のすべてを見渡すことはできない、という感覚とセットになってる。

 とくにどこかでできてしまった傷、えぐられるような傷を自分のなかに感じているならなおさら、語られないことのほうが重い、語られないことのほうに意味がある。こうして一生懸命に書いているが、ここで語れないこと、語りたくないことのほうに圧倒的に意味がある。・・・

 ・・・

 当事者が語り、告発し、自分をさらけ出し、明るみに出すことの価値が見直されている時代。それでもわたしは何を黙り、何を言葉にしないのか。その人にとって言葉にしない部分はどこなのか。そのまなざしを大切にしたいのだと今回の経験を通して思う。

 

P213

 ・・・ケアにおける献身の時間を「犠牲」と呼ぶのは、不遜なことなのではないか。

 ひとりの子どもの向こうに、生まれなかった命や、可能性としての命が漂っているような気がする。ひとりの子を育てているけれど、その子だけを育てているような感じがしない。そこには失った命や、生まれなかった命もある。幼いころの自分自身もそこに入っているようだし、今後生まれるかもわからない、待機された生命もある。自分でもよくわからない感覚がある。

 と、ここで気づく。そうか、自己消滅と自己保存がここでも働いているのかと。

 自己の輪郭は、溶け出し、開いている。誰かのために行動しても、やはり開いているのではないか。誰かのために生きているとき、そこには自分のための生も、また同時に燃えひろがっている。

 それを犠牲などと呼ぶ方がおこがましいのだ。自分が犠牲になっているのではなく、自己をひろげ、開いていった先に、他の人の生があって、それを必死で一緒に生きているだけなのだ。

 そんなふうにして、犠牲を、尽くすことを、献身を、ケアする人間をとらえることができれば。

 わたしがずっと窮屈だと思っていた主体の壁はなくなり、わたしはそこでいったんは消えるかもしれないが、そこで多くの人とともにわたしはまた生きはじめるだろう。