風をとおすレッスン 人と人のあいだ

風をとおすレッスン: 人と人のあいだ シリーズ「あいだで考える」

 読めてよかった、と思う本でした。

 

P14

 ・・・アメリカのポール・ギャリコという作家の『七つの人形の恋物語』(1954年)という作品・・・

 ・・・この作品を初めて読んだときは、かなり違和感があった。設定がとても風変りなのである。

 主人公のムーシュは女優になる夢を抱いて田舎からパリに出てきた貧しい少女。しかし、挫折の連続で生きる希望をなくし、セーヌ川に飛びこもうと決心した。そう思って歩いているとき、ふと通りかかった芝居小屋から「お嬢さん、河の底は寒いぜ」と声がかかる(以下、引用はポール・ギャリコ『七つの人形の恋物語矢川澄子訳、王国社、1997年より)。

 声のするほうには人はいない。代わりに、赤毛の団子っ鼻の人形がこちらを見ている。ムーシュはびっくりしつつも「そんなこと、あんたの知ったこっちゃないでしょ?」と答える。すると横から金髪の娘の人形ジジが現れて、赤毛の人形に向かって「にんじんさん、どこでこんなもの見つけてきたの?」とムーシュを見ながらいう。さらに小賢しいキツネの人形レイナルドも現れて、ムーシュになれなれしく声をかけてくる。

 それは人形芝居の一座だった。ほかにもまぬけな巨人、ペンギンのデュクロ博士、おせっかいなマダム・ミュスカ、おもちゃ職人のムッシュ・ニコラなど、合わせて七つの人形が仕事仲間としていっしょに暮らしている。彼らはムーシュの身の上を気の毒に思って、彼女を一座に迎え入れることにする。

 もちろん彼らは人形だ。それらの人形をあやつっているのは、腹話術を得意とするキャプテン・コックという座長である。おしゃべりで気のいい人形たちとちがって、コックは粗野で、冷酷で、無愛想な男だ。・・・

 ここまで読んで、あれっと思うかもしれない。

 七つの人形は、舞台で芝居を演じているとき以外も、自分の意思をもっているかのように好き勝手にしゃべり、ふるまい、ときにはケンカもする。ムーシュともすぐ仲良くなって、軽口をたたきあう。一方、座長のコックはムーシュにはろくすっぽ口をきかず、どなったり悪態をついたりとつらくあたるばかりだ。その分、人形たちは親切にムーシュに接してくれる。そんな人形たちを、ムーシュは深く愛するようになる。

 しかし、そのような親切な言葉やふるまいを彼らに与え、しゃべらせているのはコックのはずなのだ。・・・

 ムーシュはコックに「どうしてにんじんさんやデュクロ博士やレイナルド氏みたいに、親切に辛抱づよくできないのかしら」という。それに対してコックは「やつらのことなら、おれには関係ない」と吐き捨てる。腹話術で七つの人形をしゃべらせ、動かしているのはコックなのに、コックと人形たちはそれぞれ独立した別々の存在のようにふるまっている。

 どうしてそんなことになったのか。

 コックの本名はミシェルといった。天涯孤独な身の上で、だれにも親切にされたり、やさしくしてもらったりしたことがなく育ち、大道芸人をしたり安っぽい興行にかかわったりして生きてきた。

 そんなミシェルの中から人形たちが生まれたのは、戦争中、ドイツ軍の捕虜だったときだ。ミシェルは明日をも知れぬ不安の中にいる捕虜たちの気晴らしのために七つの人形をつくり、腹話術を使って人形劇を演じた。そのうちにミシェルの意思と関係なく、人形たちはそれぞれの個性を発揮して動きだした。ミシェルが生きのびるために犠牲にしてきたもの、やさしさや愛情、喜びや希望などを、人形たちはミシェルに代わって表現し、生きる存在となっていったのだ。

 戦争が終わってフランスへもどったミシェルは、座長キャプテン・コックとして七つの人形とともに人形芝居の一座を立ちあげる。それ以来、ミシェルはコックとして生きることで自分を守り、自分が生きられなかった人生は人形たちにまかせてきた。そうやって心のバランスを保ってきた。

 ところが、そこにムーシュが現れたことで、そのバランスが崩れていく。それまでは、ミシェルはコックという別の人格の奥に隠れた存在だった。だが、そのミシェルがムーシュに心惹かれたことによって、コックもまた、人形たちと同じくミシェルによってつくられたキャラクターだったことが明らかになっていく。感情を殺して生きてきたミシェルは、自分自身の言葉をもっておらず、乱暴なコックのキャラクターを借りてしかふるまえない。世の中を憎悪し、善意や愛情を信じず、女性を欲望の道具としか見ていないコックはムーシュを精神的にも肉体的にも傷つける。ムーシュは一座を去ろうとするが、人形たちが彼女を引き止める。

「ぼくらってだれなんだ、ムーシュ?」とにんじんが問い、「わたしたちっていったいだれなんです」とおもちゃ職人のムッシュ・ニコラが問う。そしてムーシュも人形たちに、「だれなの、あなたたちみんな、って?」と問いかける。

 ・・・

 だれに教えられたわけでもないのに、私たちは子どものころ、遊びの中で他者になりかわってしゃべったり、ふるまったりしている。そうやって私たちは自分の中に他者をすまわせ、対話をくりかえし、社会性を身につけていく。社会性を身につけるとは、自分の中にすまわせたさまざまな他者との距離を測り、彼らとわたりあうための「私」をつくりあげていく過程でもある。それが自我の確立といわれるものだ。

 ところが、その「私」をうまくつくっていけなかったり、あるいは「私」の中にとりこんだ他者を「私」だとかんちがいしたりすると、自分で自分をうまくコントロールできなくなる。そして、それはとりもなおさず現実の人間関係の困難さにつながる。これが「生きづらさ」と呼ばれるものの一つだ。

 このことをロベルト・アサジオリというイタリアの精神科医が、こんなふうに説明している。「私」とはひとりではない。ひとりの人間の中には、矛盾するさまざまな自分が同居している。嫉妬深く貪欲な自分もいれば、自己犠牲的で献身的な自分もいる。・・・それらのさまざまな自分を「サブパーソナリティ」という。

 問題は、いろいろな、あるいは特定のサブパーソナリティが暴走して「指揮者のいないオーケストラ」のように統制がとれなくなってしまう場合があることだ。アサジオリはその「指揮者」にあたる存在を「セルフ(自己)」と呼んでいる。

 ・・・

 セルフの役割は、サブパーソナリティを思いどおりにコントロールすることではない。そうではなく、相互に矛盾することもある彼らの言い分に耳をかたむけ、それぞれに居場所を与えることだ。どのサブパーソナリティも、元をたどれば、縁あって私が人生の中で出会い、自分の内面にとりこんできた他者にほかならない。どのサブパーソナリティも「私」そのものではないけれど、どれも「私」をつくりあげている大切な一部である。

 その意味で「私」は孤独な存在ではない。たとえ無人島にたったひとりでいたとしても、「私」の中ではさまざまな声が、ツイッターのように、たえずつぶやかれている。それらを、「私」を主語とする一人称の声として聴くのではなく、「私」の中にすみこんでいる他者の声として聴いてみる。

 すると「私」と自分自身の思考や感情とのあいだに隙間が生まれる。怒りがこみあげても、怒りと自分が一体化してしまうのではなく、怒りと自分のあいだに隙が生ずる。「私は怒っている」ではなく、「怒っているのは、だれだろう」と感じることができるようになる。そのとき、サブパーソナリティとのあいだに対話がはじまる。結論は出なくても、いや、あえて結論に向かわないことで、自分の中の複数の声を深く聴きとることができる。すると、隙間に風がとおるように緊張がほぐれてくる。

 

P28

 話は変わるが、エジプトのカイロに暮らしていたとき、町の古いエリアでザールと呼ばれる悪霊祓いの儀式があると聞き、行ってみたことがある。

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「人間の中には、いろんなものがすみついているんだ。ザールをすると、そのすみついているものが喜ぶんだ」とウィダードはいった。

 意外だった。すみついているものを祓うのではなく、喜ばせるのか。それでは悪霊祓いというより、悪霊のご機嫌とりではないか。

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 ザールでは、自分の中にすみついている「霊」を追い出さない。映画などで見るキリスト教の悪魔祓いでは、悪魔に憑かれた人のからだから神父が悪魔を追い出そうとする。しかし、ザールはそうではない。

 ザールについてのある研究によれば、女性はそれぞれに自分だけの悪霊をもっている。楽団は、その悪霊にふさわしいリズムを試行錯誤しながら探しだす。悪霊の気に入るリズムが見つかると、女性は激しく踊りだしたり、泣いたり叫んだりして感情を解放する。悪霊が満足すると、本人は正気にもどり、なにごともなかったかのようにすっきりした顔で帰っていく。

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 ザールの参加者の多くは中高年の女性である。その女性たちがザールの場では、タバコを吸ったり、イスラームの教えでいつも頭部を覆っているヒジャーブをかなぐり捨てたり、踊り狂ったり、大声を上げて泣き叫んだりする。それはおそらく彼女たちが家庭の日常では見せない姿だろう。

 家庭での彼女たちの「私」は、主婦であったり、母であったり、妻であったりという家庭で求められる役割によって規定されている。でも「私」の中には、母でもなく、妻でもなく、主婦でもない「私」もいるだろう。そうした存在が居場所を失い、鬱屈した感情として溜まっていき、彼女たちの中で悪霊に成長していくのかもしれない。

 悪霊ははじめから悪霊だったわけではない。「私」が、まわりの他者との関係においてつくられるように、「悪霊」もまた「私」の中の複数の人格との関係によってつくられていく。現実の社会の中で、底辺に追いやられ、居場所をなくし、声を上げることもゆるされない人たちが、ときには反社会的な存在となってしまうように、自分という社会の中で居場所と声を奪われた人格が悪霊となっていく。

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 しかし、悪霊になりかけている「私」もまた自分を成り立たせている大切な一部にほかならない。連帯責任をとるように「私なんてだめだ」と自分をまるごと断罪したくなるのをこらえて、悪霊になりかけている「私」を「大切なともだち」だと考えてみては、どうだろう。

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 悪霊になりかけている「私」とは、大切な友だちが困っているようなものだ。その友だちを気づかうように、その思いに耳をかたむける。「自分にやさしくする」とは、そういうことではないだろうか。

 

P90

 自分がなにを信じ、なにを大切に思い、なにをゆるせないと感じるかは、自分がたまたま身を置いている環境に大きく影響される。犯罪に手を染めずにいられる自分たちこそ正しいと胸を張っていえるわけではない。

 鎌倉時代親鸞という僧は、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)と述べている。この自分とはさまざまな縁、つまり過去から現在に至る無数の人間関係や環境などの要因がかさなりあってできた結び目であり、その縁によってはどのような行為でもしてしまうのが人間だ、という意味だ。個人の意志ではなく、その人をとりまく複雑にからみあった関係性こそが、その人のありかたをつくっている。