終章に、このように書いてありました。
「GKというものは絶望や失望、恐怖を隠すための練習に一生を捧げるものだ。常に冷静さを保つロベルトの能力は、うつに支配されていた時にも生き続けていたのである。しかしこの能力はまた彼の破滅の原因ともなった。なぜなら、死に至るという誤った道を病によって選ばされたロベルトが、あまりにうまく真意を隠したせいで誰も助けることができなかったのだから。」
「うつという問題に向き合うことになった時、大部分の人は自分がせいぜいその病気の曖昧な意味を知っていただけで、実際には無知に等しいことに気づいた。ほとんどの人がこの病に苦しんでいることすら知らないというタブー視を終らせるのに、ロベルトの悲劇的な運命を役立たせるべきだと人々は大いに声を上げた。意欲の減退、不眠などの症状はしばしばフィジカルな問題だと誤解される。いきなりこの病気への理解が進むと考えるのは期待し過ぎだろうが、この本はうつに苦しむ人たちのことを理解するのに少しは役立つかもしれない。」
P38
あのミスはアンディの言うように取るに足らないことだ、とロベルトは努力をすればわかっただろう。しかしそれから何年か後、ロベルトは若いGKとして本当に感じていたことを明らかにした。「どんなミスでも自分を許さない」。チームメイトが大したことではない、と言っても、監督が誰にでもあることだから次の土曜日はうまくいくさ、と言っても、当然のように先発を続けても、「1週間ずっとミスのことが頭から離れない」。
翌週は病気だとして学校に行かなかった。
決してミスを犯さないという持続不可能な自己への欲求こそがGKの拷問である。彼らはミスを忘れることができない。しかしGKは自分を抑制しなければならない。そうしないと次の試合ではすべてが裏目に出ることになる。
P54
・・・ロベルトは2部のフォルトゥナ・ケルンとの親善試合で先発し4-1で敗れた。
その試合中、あの熱、あの静まらない動悸を再び感じていた。U-18のチームで味わった、大人を失望させてはいけないという恐怖がよみがえってきた。カンプスのようには決してなれない、プレッシャーに耐えられるようにはならないという不安が襲ってきた。見えない存在である第3GKのやることなど誰も気にしない、と思う一方で、だからこそミスをすればベテラン選手の怒りを買うに違いない、と恐れていた。矛盾しているが、恐怖とはそういうものである。
新たなロビーを知ることになったテレサは、彼の恐怖の理由がわからず困惑していた。・・・
・・・
「練習に行きたくない」
「ロビー、しっかりして。大袈裟よ」
「行きたくない。わからないのか?行きたくない。それだけだ」
「マルコもいるから。行ってみればすべてうまくいくわよ」
ロベルトがようやく出かけると、テレサは彼の父ディルク・エンケに電話し、彼は次の週末に訪ねてきた。
ディルクは同じような恐怖を抱く患者を見たことがあった。「だが父親なので、カウンセラーとしてロベルトを診ることはできない」とテレサに説明した。唯一息子にアドバイスしたのは、日課を作りなさい、ということだった。・・・
・・・
「病院に行きなさい」と別れ際に父は言った。
ボルシアMGは冬の合宿に入る寸前だった。ロベルトは恐怖でパニックに陥っていた。合宿に行けない、自分を信頼していないチームと一緒に1人で1週間を過ごすのは無理、練習時のミスをねちねちあげつらわれるに違いない、と思っていた。
そこでチームドクターのヘルベルト・ディツェルと話をしに行った。
プロサッカーチームの医師たちは大きな重圧にさらされている。毎週、医者としての良心を裏切り、選手の体の必要性を無視して鎮痛剤を与えてグラウンドで戦えるよう、監督から強要されるのだ。
しかしその時、医師はクラブではなく目の前の男のことだけを考えた。ディツェルはこの内気な青年のことを気に入っていたのだ。ロベルトを家に帰し、インフルエンザの初期だとして合宿への不参加を許可した。
・・・数週間後、何の理由もないまま恐怖は消えていた。
P277
「聞いたか?」とネブルンクがテレサのケルンでの2度目の滞在中に尋ねた。2003年11月23日、金曜日の昼。ネブルンクがオフィスから電話をかけてきたが、ロベルトの話ではなかった。
セバスティアン・ダイスラーがうつで病院に入院した。
5年前ボルシアMGでデビューした時には、ギュンター・ネッツァー以来のドイツ最高のタレントと呼ばれた。当時ロベルトもボルシアMGに所属していたが、マルコ・ビージャ以外とは密接な関係ではなく、ダイスラーとは表面的な付き合いしかなかった。
翌朝ロベルトはパンと新聞を買いに行き、うつについての長く濃密な記事を読んだ。
うつは性格の弱さではなく、ステイタスや人生の成功、強靭さとは無関係にかかる病気である。幸福のために必要だと我われが思っているものを持っているかどうかも関係ない。20世紀最も決定的な仕事をした政治家ウィンストン・チャーチルも、うつに苦しんだ。今度はバイエルンで数週間素晴らしいプレーをしていたセバスティアン・ダイスラーの番だった。癌と同じようにうつも、その原因も現れ方も多様である。ダイスラーの場合はフロリアン・フォルスボエル担当医によると「典型的なうつ」であり、過剰なプレッシャーにさらされると表面化する「体質」だということだった。〝ファンタスティックなセバスティアン〟〝ネッツァーの再来〟であってほしいという人々からの大きな期待に加えて、彼は自分に非常に厳しかった。さらにプロになってからの5年間でのダイスラーの負傷回数は15回で、5回の手術を経験していた。
ロベルトはどうニュースを受け取るべきかわからなかった。うつに苦しむ唯一のサッカー選手ではないこと、自分が変わり者ではないことを知ったのは良かったが、一方で羨ましさも感じていた。誰もがダイスラーのことを話題にして、同情していたからだ。
P384
2008年4月、EURO開幕の2カ月前・・・ロベルトは自宅の居間でその節のダイジェスト映像を見た。レバークーゼン対シュツットガルトのダイジェストではスローモーションでシュツットガルトのGKスベン・ウルライヒのプレーを繰り返していた。彼がパンチングしたボールをレバークーゼンのシモン・ロルフェスが拾いネットの奥へ蹴り込んだ。その数分後、ウルライヒがロングシュートをつかみ損ね、そのボールをシュテファン・キースリングが決めて2-0とした。試合後シュツットガルト監督のアーミン・フェーはこう言った。「しばしばサッカーはシンプルだ。我われはGKのミスで敗れた。彼をかばっても仕方がない」。ロベルトは怒りを感じた。監督が自分のGKに対してどうしてそんなことが言えるのか?特に1点目はGKのミスではなく、正しいパンチングによるクリアが不幸にも相手の前に落ちただけなのに。ロベルトはテレビ解説者がそういうことに気がつかないのには慣れていたが、でも監督だぞ!
「なんて不当なんだ!」とテレビに向かって叫んだ。
あの試合後、スベン・ウルライヒは家に帰った。19歳の彼はまだ母親と同居していた。ブンデスリーガで10試合プレーしたばかりでチャンスを失ったのだろうか?と悲しみの中で自問していた。電話が鳴ったが覚えのない番号だった。数秒間迷ってから取った。
「声を聞いた時は驚いた」とウルライヒは語る。ロベルト・エンケからだった。
ロベルトはウルライヒのことを深くは知らなかった。その2週間前、ハノーファーとシュツットガルトの試合で数分間言葉を交わしただけだった。しかし、ウルライヒの置かれている状況は自分もよく知っていると思い、グローブメーカーを通じて電話番号を手に入れたのだった。
2人は30分間話をした。ロベルトはウルライヒの失点シーンを分析し、大事なのは正しい決断をすることだと言った。「最初のシュートをパンチングしたのは大変良い」。2点目は体の倒し方は良くて、残りは不運だった。たとえ監督にベンチに送られても希望を失わないようにと伝えた。公で批判するフェーは卑劣であり、自分もバルサで似たようなことがあり馬鹿げた試合の後でチームから外されることになった。それで深く落ち込んだが、一番言いたいのはそこから脱することができたということ。君もそうできる。なぜなら素晴らしいGKだから、と励ました。「電話を切った時、鳥肌が立っていた」とウルライヒ。
その後、彼は母の方を見て言った。「ロベルト・エンケだった」。彼女は説明を待っていたが、ウルライヒはどう言っていいのかわからなかった。「プロサッカー界で似たようなことがあったとは思えない。代表GKが自発的に19歳の若者を助けるために電話するなんて」
