耳の聞こえないお医者さん、今日も大忙し

耳の聞こえないお医者さん、今日も大忙し

 訳者あとがきに、こんな風に書かれていました。

「患者との交流がいきいきと描かれているのが、本書の大きな魅力だ。カラフルでちぐはぐな服装とわれがねのような声が特徴の、マッチョな老人デーン・ストロング、睡眠薬を手に入れるためにあの手この手を使う老練なミセス・コン、・・・多種多様な患者が登場する。なかには気むずかしい、手に負えない患者もいるが、著者はそうした人々にも誠実に対応する。患者にむけるまなざしは、どんなときでもあたたかい。

 何事にも無感動に見える少女の心をひらこうと力をつくし、難病の診断をくだされた子供の両親を思いやり、思わしくない検査結果に心を痛めるその姿から思いうかぶのは、『医は仁なり』という言葉だ。著者がいうように、医者はスーパーマンではない。なおせない病気もある。だがそんなときも、いっしょに病と闘い、痛みを分かちあってくれるザゾヴ先生のような家庭医がそばにいたら、どんなに心強いだろう。」

 読めてよかった、と思う本でした。

 

P7

 ラトガーズ・メディカルスクールから封筒を受けとったのは、ついこのあいだのような気がする。・・・「ラトガーズ・メディカルスクールは貴殿の入学を許可します」その先は読めなかった。うれしさのあまり、とびはねていたのだ。

 その年、つまり一九七四年に各地の医学部から同じような手紙をもらった人は、全国に何千といただろう。しかしわたしの場合はとくべつだった。わたしにはほかの人と大きくちがっている点があり、そのため医学部に入学するのがとくにむずかしかった。わたしはほとんど聴覚をもたないろう者なのだ。

 

P14

 医学部にいるころ、何人かの教授にべつの専門分野を選ぶよう強くすすめられたことを思いだした。彼らは家庭医療が将来はなくなるという誤った考えをもっていた。誇りをもてるような分野を選びなさい、何年か後にもまだちゃんと存在しているような分野を、と教授たちは言った。

 それでもわたしは家庭医になることにした。それが自分のやりたいことだったからだ。わたしが権威に反抗したのは、それがはじめてではなかった。耳がきこえないことがわかった三歳のとき以来、ずっと闘いつづけている。わたしの聴力はゼロではないものの、限りなくそれに近い。わたしより聴力が低いのは、全ろう者だけだ。・・・診断がついた時点では、みなわたしが自立した大人になれるかどうかさえ危ぶんだ。・・・健常児に伍してやっていけるはずがないというのが、専門家の見解だった。

 

P103

 ・・・自分の権利のために闘うのは、それがはじめてではなかった。それにある意味で、わたしは家族の伝統をひきついでいた。父も母も、医学部へ入るのに苦労している。もっとも、ふたりの場合は反ユダヤ主義のためだった。

 ロシアからの移民の娘である母は、貧しい家庭に育っている。・・・当時は女性が医学部へ行くこと自体むずかしかったし、国内のほとんどの医学部はユダヤ系の学生の数を制限しており、定員がきまっていた。母は成績優秀だったにもかかわらず、どこの医学部にも入れなかった。だがスコットランドエジンバラ大学へは入学を許可された。母が大西洋をわたって夢を実現させることができるよう、祖父母はさらに借金を重ねた。

 母はヨーロッパで二年半すごしたあと、ようやく渡航費をつくりだし、家族と会うために一時帰国した。ところが帰国しているあいだに第二次大戦が勃発した。ナチスが潜水艦による襲撃をおこなっていたため、イギリスへもどることができなくなり、やむなく学籍を放棄した。

 ・・・ふたたびアメリカの医学部に志願した。今回は、一校が入学を許可してくれた。シカゴ・メディカルスクールだ。同校は当時ユダヤ人差別をしていない数少ない学校のひとつだった。しかし学校当局はエジンバラ大学での二年半の勉強は認めず、はじめからやりなおすことを要求した。結局母は医者になるのに六年半かかったことになる。シカゴにいるあいだに、母は父と出会った。父もやはり医者になるために苦労していた。

 ・・・イリノイ大学から入学を許可するという通知がきた。父は同校を志望していたので、ほかの学校への志願をとりやめた。ところが一ヵ月後、イリノイ大学は入学を取り消す旨の通知を送りつけてきた。大学当局は知らなかったが、父はこうした仕打ちをするにはふさわしくない相手だった。祖父はシカゴの著名な法廷弁護士だったのだ。

 祖父はイリノイ大学医学部の入学者選抜記録を提出させた。それにより、同校がユダヤ人を一名だけ入学させることがわかった。ユダヤ人を差別していないことを示すためにひとりは入学させるが、ユダヤ人学生をふやしたくないので、それ以上は許可しない。父は最初その一名に選ばれたが、なぜか選抜委員会はその決定をくつがえし、べつの志願者を入学させることにしたのだ。祖父と父は大学を告訴することにした。

 ・・・

 当時シカゴ・メディカルスクールは何らかの理由でイリノイ大学に借りがあると同時に、一名分の欠員があった。そこでイリノイ大学は祖父が告訴をとりさげるのとひきかえに、シカゴ・メディカルスクールに父を入学させるよう手配し、問題は解決した。

 

P153

 家庭医を専門にしようとはっきりきめたのは、医学部の三年が終わったときだ。・・・いくつもの科で実習したが、それぞれ独自の魅力があって楽しかった。産科には幸せな母親と赤ちゃん、小児科には無邪気な子供たち、内科には深い知識、外科にはドラマがつきものだ。

 しかしわたしが本当になりたいのは「ほんもののお医者さん」だった。家族全員の面倒をみて、往診して、地域の人たちを個人的に知っていて、尊敬され、信頼されていた昔の田舎のお医者さんのように、古きよき時代の思いやりをもちつつ、現代医学の知識も活用して、家族の面倒を丸ごとみたいと思った。さらに病気をなおすだけでなく、人々が健康でいられるよう手助けがしたかった。・・・

 家庭医になりたい理由はほかにもあった。両親の志をつぐというのもそのひとつだが、それはさほど重要ではない。いちばん大きな理由はわたしが聴覚障害者であることだ。耳がきこえないために、かえって相手の心を感じとることができる。会話の多くの部分が理解できないので、ボディランゲージのようなほかの手がかりでそれを埋めあわせる。この能力が役に立ったことは何度もある。ボディランゲージはその人の言いたいことを言葉より雄弁に物語るだけでなく、ときには言葉ではわからない感情もあきらかにする。そのことは人間の感情がどんなに重要なものかを気づかせてくれた。

 また聴覚障害があるためにさまざまな困難にぶつかってきたことも、理由のひとつだ。人とちがっていることは、ときとしてとてもつらい。そうした経験のおかげで、人の気持ちに敏感だ。そのことが人を知り、手助けしたいという思いを育んできた。それを実現するのに家庭医療ほどふさわしい分野があるだろうか?

 

P331

 もしふつうにきこえていたら、どんな人生を歩んでいただろう?医者になっていただろうか?それも家庭医に?もしなっていたとしても、患者を知ることにこれほど興味をもっただろうか?自分の仕事でいちばん楽しいと感じるのは、その側面なのだ。医療そのものも興味深いが、医者であることの最大の魅力は人に会えることだ。患者についていろいろ知ることができる。家族にだれがいるか、職業は何か、どんな生活をしているか、だれに赤ちゃんが生まれるかといったことだ。そして彼らが元気になるよう手助けできれば、ますますうれしい。もしかすると、わたしはろうの家庭医になるべく運命づけられていたのかもしれない。とにかく、わたしは自分の人生に満足している。・・・