私はなぜ80歳でエベレストを目指すのか

私はなぜ80歳でエベレストを目指すのか(小学館101新書)

 大変な骨折や心臓手術があったり、また一時メタボ体型になったものを登山できる体に戻すくだりもあって、そこまでしても山に行きたいという想いに驚きました。

 

P6

 私にとって、80歳でのエベレスト登頂は、今の人生を支えている目標です。その根源は、エベレストの素晴らしさであり、またその価値を身体で知ってしまった私自身が魅力にとりつかれてしまい、3度目にもかかわらず子どものようにドキドキワクワクし、まるで遠足にでも出かけるように準備しているこの時間が、大切で、楽しくて仕方がないことです。

 

P41

 私の父、三浦敬三は、88歳でアルプス・オートルートの縦走をやり遂げた後に、99歳でモンブラン山系の中で最長の氷河ヴァレーブランシュをスキーで踏破した。しかも90歳から97歳にかけて、3度も骨折している。普通ならもうスキーなんて危ないことは止めようと考えるだろうし、周囲だって、もうそろそろいいでしょうと止めに入る。しかし父は、目標を失わなかったのだ。

 

P64

 ・・・大きな挫折は、・・・26歳でアマチュアスキー選手としての道を断たれてしまったことだ。

 ・・・

 北大に進学した後もスキーは続けていたが、縁があって結婚、さらに獣医学部の新しい研究室の助手として採用され、北大のキャンパスで駆け出しの研究者として勤務し、その後は体調を崩したこともあって、助手から月寒にあった北大の試験場の獣医師に転じて働いていた。このまま札幌で獣医師として生きていくことも考えていた。

 しかし、スキーをどうしても諦めきれなかった。オリンピックに出てみたかった。

 大学の仕事をしながら出場した1958(昭和33)年の全日本スキー選手権(志賀高原)は、休暇をもらって夫婦で出場した。私はろくに練習する時間もなく、その上当日はインフルエンザで40度も熱を出してしまった。

 フラフラしていたので、とにかく事故だけは起こさないようにとゆっくり降りてきたつもりが、大回転で6位、滑降で5位に入賞してしまう。

 これなら、翌年の大会に向けてじっくり練習していけば、きっと優勝だってできる。翌々年はアメリカのスコーバレー冬季オリンピックが開催される。つまり翌年の大会で優勝すれば、日本代表としてオリンピックに行けるかもしれないのだ。

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 年齢を考えると、やるとすれば今しかない。妻はやはりアルペンスキーの選手だったから、かえって背中を押してくれた。

 こうして私は、大学でのキャリア、獣医師としての道に自ら終止符を打ち、・・・背水の陣で選手としての本格的な活動を再開した。・・・

 翌59年。私は全日本スキー選手権の青森県予選をトップで通過した。・・・

 問題が起きたのは、その予選大会の閉会式のことである。

 当時青森県スキー連盟は、国体や、私が出場するはずだった全日本スキー選手権に、4人の出場枠を持っていた。私はトップで通過したから当然出場できるのだが、なぜか上から2人しか出場させず、3・4位の出場は見送るという。

 選手たちは怒った。当然である。

 そこで私は、理由を問いただした。すると役員は、出場させても入賞が期待できない選手を送り込む必要はない。青森県連盟に派遣のための予算がない、などと言う。

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 ・・・私は役員にこう提案した。

「青森のアルペン競技はまだまだ弱い。だからひとりでも多くの選手を全国大会に送り込んで経験を積ませればどうでしょうか。予算が厳しいのであれば、選手同士で金を出し合えばいいのです」。今でも間違った発言だとは思えない。

 すると役員のひとりは、その場で「連盟の決定に文句をつけるような奴は、スポーツマンではない」と放言した。

 これに選手たちはますます怒った。直接詰め寄る選手に対して、役員は「失格にするぞ」と通告してきた。もはや閉会式どころではなくなってしまった。

 その後、あっという間に臨時役員会が開かれ、私に対してアマチュア資格剥奪、永久追放にするという処分が下った。・・・

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 仮に主張が間違っていたとしても、選手として不正を働いたわけでも、大会運営を妨害したわけでも、暴力を振るったわけでもなく、ただひとりの選手として意見を述べただけなのだ。

 それなのに、選手生命の全てを人為的に絶つという処分はあまりに厳しく、理不尽なものだったと思う。実際、当時のマスコミは青森県連盟の対応を批判した。・・・

 大学での仕事を辞めてオリンピック出場を目指していた私は、思わぬ形でいきなり目標を失ってしまい、ニートも同然の状況に追い込まれてしまった。・・・

 しかし、恨み言を口に出している前に、夫婦ふたりには、生きていかなければいけないという現実があった。・・・

 ひとまず、それまでも働いていた八甲田山でのガイドの仕事を続けた。

 最初は気分も塞ぎがちだった。だがそんな私を、山や、山を愛する人たちは励ましてくれた。・・・

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 冬になると、福島や新潟のスキー場で、スキースクールの助手をした。

 とにかく貧乏だった。食うや食わず、と言ったら大げさかもしれないが、贅沢は何ひとつできなかった。

 でも、悲壮感はなかった。30歳が近づき同級生たちは助教授になったり、アメリカに行ったり、スキー仲間は大会に忙しい。しかし、彼らと自分を比較することはしなかった。スキーが好きで、山を愛していた。形は違っても、そこに関わって生きていけるのだから。好きなものが、私を救っていてくれたのかもしれない。

 ・・・

 雪がなくなると、今度はつてを頼って、立山のボッカ(歩荷)の仲間に混ぜてもらった。いわゆる「担ぎ屋」である。最初は50㎏だったが、やがて一人前の100㎏を担いで歩くことができるようになった。

 この仕事を選んだ理由は、トレーニングになると考えたからだ。

 61年、神田界隈を自転車で走っていた頃、偶然スポーツ新聞で、アメリカで世界プロスキー選手権が開催されるという小さな記事を目にした。よく読んでみると、第1回だという。

 これには驚かされたと同時に、希望が湧いてきた。「これだ!」と叫びたい気分だった。

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 そして私は、これまた無鉄砲にも、つたない英語でエントリーしたい旨を綴った申請書を送った。するとしばらくして、エントリーを認める返事が届いたのだ。

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 私は、亡くなったアップルの創業者スティーブ・ジョブズが、2005年6月、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチに接して、大塚時代のことを思い出した。

 彼は最後に「Stay Hungry.Stay Foolish.」というフレーズで、スピーチを締めくくった。

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 30歳を挟んだ数年間、私はまさにハングリーさのかたまりだった。貧乏だったが、自分の目標に邁進していた。でも、他人からは「あいつ、ちょっと俺たちとは違うな」「馬鹿だな」と言われることが多かった気がする。

 ・・・私には私の考えがあり、目標がある。だから焦らない。むしろ他人から「愚かだ」と言われたら、ニヤニヤしてしまう。そのくらいで、実はちょうどいいのだ。私はジョブズの言葉を、人から「愚かだ」と言われても気にせず、自分の信じた道を行け、という叱咤だと受け取っている。

 こうして私は、1962年の正月明けに、羽田空港から単身アメリカに旅立ち、プロスキーの世界を転戦した。命がけでレースをして、資金がなくなると日本に戻り、スポンサーを見つけてはまた旅立つ日々だった。

 

P94

 私がもっとも辛かった入院生活。それは、心臓がらみではない。前にも述べた、2度目のエベレスト登頂成功後の2009年2月、76歳の時の骨盤と大腿骨付け根の骨折だ。・・・サッポロテイネスキー場で転倒、骨折してしまった。・・・

 ・・・全治6カ月という診断だった。・・・

 入院生活は、2カ月半に及んだ・・・

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 再起不能になるかもしれないという考えが頭を支配してから1週間、ようやくポジティブな方向に頭が回り始めたのである。

 もし、このまま下半身が不自由になったとして、現実的にできるチャレンジ、掲げられる目標はないのだろうか。そういう考えに至ったのだ。

 私の友人には、オートバイ事故で片足を失った後、障害者スキーで頑張り、パラリンピックに2度出場している人がいる。そして椅子に座って行うアルペンスキーを、チェアスキーという。

 自分にもできるだろうか。・・・

 置かれた状況の中で、ベストの目標、ベストのチャレンジに頭を切り替えてみる。すると、再び研究心や探求心が湧いてくる。・・・だんだん気分も復活してくるのだ。