著者がきつかった時に聴きたかったという、夢をあきらめる気持ちに寄り添ってくれるようなお話を集めたアンソロジーです。
断念するということ 山田太一
P14
海外を旅して、たとえばパリでノートルダムもルーヴルも見なかったといえば呆れられ、台北へ行って故宮博物院を訪ねなかったといえばなにをしていたのかと疑われる。・・・
では、そんなにノートルダムを愛し、故宮博物院の名品に心を奪われているのかというと別にそれほどのことはなく、衆人の認めるコースをたどる「可能性」を手にしながら、それに背を向ける人間は「不自然」なのである。東大へ入れる学力を持ちながら、高校で終わりたいなどということも「不自然」である。あと数時間眠らずに頑張ればノルマを達成出来たのに諦めてしまった社員は人間としてもあまり上等ではないと見られてしまう。そういう世界に私たちは生きている。
そして半分ぐらいは、そうした世界にうんざりもしているのではないだろうか?ルーヴルの前へ行って美術館に入らず、公園のベンチで日射しの動くのを見ているなどということは、まったく日本人には苦手だし、私だってそれが素晴らしいとばかりは思わないが、といって中へ入って目ぼしい(といわれている)名作を駆け足で見て回り、売店で関連の絵はがきやみやげを買い、記念写真をとってスケジュールをこなしたと一息つく人生の空疎を感じないわけにもいかない。
・・・
「可能性」という衝迫を逃れて、あるがままの生を受け入れるばかりが善とはいわないし、私だってとてもそんな境地にたどりつきようもない人間だが、絶えず自他への不満をかかえ、追い立てられるように生を終るのもみじめである。心して「生きるかなしみ」に思いをいたしたい。ひとにではなく、自分にそういい聞かせている。・・・
P28
ハイリゲンシュタットの遺書
ハイリゲンシュタット 一八〇二年一〇月六日(ベートーヴェン31歳)
不機嫌で、打ち解けない、人間嫌い。
私のことをそう思っている人は多い。
しかし、そうではないのだ!
私がそんなふうに見える、本当の理由を誰も知らない。
私は幼い頃から、情熱的で活発な性質だった。人づきあいも好きなのだ。
しかし、あえて人々から遠ざかり、孤独な生活を送らなければならなくなった。
無理をして、人々と交わろうとすれば、耳の聞こえない悲しみが倍増してしまう。つらい思いをしたあげく、またひとりの生活に押し戻されてしまうのだ。
「もっと大きな声で話してください。どなってください。私は耳が聞こえないんです」などとは、どうしても言えない。
音楽家の私にとって、聴覚は、普通の人たちより優れていなければならない。実際、かつてはそうだったのだ。音楽家でも、そこまでのものはなかなかいないほど、完璧だった。
それが衰えて、普通以下になってしまったということを、自分から人に知らせるなんて―そんなことは私にはできない!
私はもう、友達とくつろいで、さまざまな会話を楽しみ、胸の内を語り合うなどということはできない。流刑囚のように、孤独に生活するしかないのだ。人に近づけば、自分の病状に気づかれてしまうのではないかという怖ろしい不安に襲われる。
医者に勧められて田舎で過ごしたこの半年間も、そんな状態だった。
それでも、ときどきは人恋しくなって、人々の集まりに出かけて行きたいという誘惑に負けてしまうことがあった。
けれど、私のそばにいる人が、遠くの横笛の音を聞いているのに、私にはまったく聞こえず、誰かが羊飼いの歌を聞いているのに、私にはぜんぜん聞こえないとき、それはなんという屈辱だっただろう!
何度もそんな目にあって、私は絶望して、もう少しで自殺するところだった。
みじめな、じつにみじめな生活。
ちょっとした変化でも、たちまち不調のどん底に落ち込んでしまう、この過敏で弱い肉体。こんな身体で、なんとかやってきたのだ。
―忍耐!―それが肝心、我慢して頑張って、と人は言う。私はそうしている。
だが、いつまで耐え続けられるだろう。ずっと持ちこたえられるといいのだが。
この若さで、悟った人間になるのは、簡単なことではない。
いつかこれを読む人たちよ、あなたがもし不幸であるなら、私を見なさい。あなたと同じひとりの不幸な人間が、あらゆる障害にもかかわらず、なしうるすべてのことをした。そのことになぐさめを見出してほしい。
希望よ、悲しい気持ちでおまえに別れを告げよう。
いくらかは治るのではないか、そういう希望を抱いてここまで来たが、いまや完全にあきらめるしかない。
秋の木の葉が落ちて枯れるように、私の希望も枯れた。
ここに来たときのまま、私はここを去る。
美しい夏の日々には勇気もわいて、励まされたが、そんな勇気も今は消え去った。
ああ、神様、歓喜の一日を、私にお与えください。
心の底から喜ぶということが、もうずっと私にはありません。
いつかまたそういう日が来るのでしょうか?
もう決して来ない?
そんな!それはあまりにも残酷です。
P142
サッカーと鬱については、各国でさまざまな研究が行われている。
スポーツは健全な精神を育成し、悩みや鬱を解消する―。
おそらくはほとんどの人が持つそんなイメージは、必ずしも正しいとは言えない。
特にカテゴリーやレベルが上がるほど、アスリートが精神的問題を抱える傾向は強くなるのである。
最も信憑性が高い最近の研究例は、FIFPro(国際プロサッカー選手連盟)のものだ。
二〇一五年十月に発表された、FIFProのヴァンサン・グーテバージュ(彼も元プロサッカー選手だった)率いるチームの調査では、「プロのサッカー選手は一般人よりも鬱にかかる確率が高い」という結果が出た。
現役選手と引退選手を含め、三分の一が鬱、あるいはそれに準ずる精神疾患にかかっているという。
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スペイン・スポンサー文化庁でスポーツ心理学が専門のパブロ・デル・リオ医師は語る。
「下部組織における、少年のメンタル面での対策はまだまだ十分ではありません。現場の監督たちは精神科医の重要性を理解していないのです。特に、選手がサッカーをやめるときには鬱や精神不安定などの症状を引き起こすケースが多い。彼らは、それまではサッカーという目標、その夢ひとつで生きてきたわけです。それを失ったときに、人間はどうなるか。下部組織の少年たちは年齢的にも非常に若く未熟なので、彼らが感じる重圧というものは凄まじい。本来であればしっかりとした対策がなされていないといけないのです」
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「レオだって、同じ問題を抱えているんです」とフェランは言った。
「ピッチの上でレオが嘔吐しているシーンが、よくテレビカメラに抜かれますよね?体調が悪い、消化器系に問題がある、なんて言われています。しかしあれは重圧からくる精神的なものです。私自身、実際にバルサ時代にピッチ上で同じ体験をしましたし、彼のことも見ているから手に取るようにわかります。あれは極度の緊張や不安がもたらす、一〇〇%精神的なものです。誰もが、メッシくらいの存在になれば緊張なんかしない、なんて思っていますが、全然そんなことはないんです」
メッシは嘔吐の問題が続いてからというもの、さまざまなセラピーや治療を受けている。現在は食事療法の名医の診断を受けるために北イタリアにまで定期的に通うほどだ。
世界最高の選手ですら、心身両面でのケアは必須なのである。
